1906年の大地震(3) ジアニ―ニの銀行


今回はアマデオ・ジアニーニという銀行家の話です。

 彼は「バンク・オブ・アメリカ」の前身である「バンク・オブ・イタリア」を創立した人です。

 銀行と言っても、最初は窓口ひとりの小口の金貸しでしたが、やはり大地震をきっかけにして大きく成長し、やがて世界的な銀行になりました。


 私が彼のことを初めて知ったのは、「ディズニ―・ファミリー・ミュージアム」に行った時のことです。フイルムの中で、ウォルト・ディズニ―が、映画に製作費がかかりすぎて破産しかかった時、どれほどジアニーニに助けられたことかと熱く語っているのを見たのです。


 善良で、かつこんなに器の大きな人間がいるのだなぁ、と思いました。そういう人の話です。

 

*

 

アマデオ・P・ジアニーニ(1870-1949)はイタリア人移民の子で、サンノゼで生まれた。サンノゼはサンフランシスコから南に約90キロ、今なら車で1時間ほどのところにある町です。


 両親はイタリア北部のリグーリア州(首都はジェノヴァ)のファヴァーレ・ディ・マルヴァロという小村の農家出身でした。


 父親のルイジは20代の頃、ゴールドラッシュのニュースを聞いてカリフォルニアに来たが、一度帰国して、同じ村の娘バージニアと結婚し、再びアメリカにやって来たのだった。その時、バージニアは15歳、ルイジと会ってからわずか1ヶ月半で結婚し、海を渡ったきたことになる。


 サンノゼに着いて間もなく長男のアマデオが生まれた。

 若い夫婦は数部屋の家を買って下宿業を始めたが、自分達で改築して部屋数を増やし、数年後には近郊のアルヴィーソに広い土地を買うことができた。ふたりとも働き者だった。


 そこで野菜や果物を育てて生活は順調に思えたのだが、わずか1ドルの支払いが原因で、ルイジは雇用者に撃たれて死んでしまった。

 その時、ルイジは37歳、バージニアは23歳、子供がふたりいて、3人目を妊娠中だった。


3年後にバージニアはサンフランシスコで野菜の仲介人をしていた男と結婚、一家はサンフランシスコに移った。

 長男のアマデオは学校をやめて、義父の仕事を手伝うことになる。当時、その野菜市場はノースビーチに近い場所にあった。


 1892年、アマデオ(以後。ジアニーニと書きます)は22歳で、ジョゼッペ・ク―ネオ(1834-1902)の娘 で、1歳年上のフロリンダ・アグネス(1869-1941)と結婚して、仕事はサンフランシスコで続けたが、サンマテオに住むことになった。


 この結婚はジョゼッペ・ク―ネオがジアニーニの仕事っぷりを見込んだこと、また両親が同じ地方の出身だということもあっただろう、ジョゼッペはノースビーチに「コロンブス・セービングとローン」という会社を持っていた。


 ノースビーチと名前は、もとはここがビーチだったからである。それを埋め立ててできた場所で、当時は移民や荒くれ者が集まっている危険な地域だった。飲み屋やギャンブル場が立ち並び、金の採掘に失敗して、故郷に帰るに帰られない男達がくすぶっている場所だった。

 

 

 ノースビーチはチャイナタウンの隣りにあり、今は「リトル・イタリア」と呼ばれ、イタリアのレストランとや飲み屋が並んでいて、人気スポットになっている。しかし、危険なニオイのする店もあることはある。


 リトル・イタリーの中央をコロンブス・アベニューが走り、聖ビーター&ポール教会がある。コロンブスはジェノブァの英雄だから、このあたりはジェノヴァの出身者が多かったのだろう。ここから近くに見えるコイト・タワーの下にも、大きなコロンブスの像があるし、毎年10月には「コロンブスデー」という祝いがあり、ノースビーチではパレードが開催される。


 聖ビーター&ポールはカトリック教会で、イタリア人移民のために建てられたものである。(1884年の建立だが、今の白亜の教会は、大火災のあとで再建されたもの)

 ついでに書いておくと、この教会はノースビーチ出身の野球選手ジョー・ディマジオがマリリン・モンローと結婚した教会だということになっている。

 しかし、実際にはモンローは再婚であったため、この教会での結婚式は許可されず、教会の前で撮影をしただけだったそうだ。

 ディマディオの父親はシシリアから来た漁夫で、彼は海に近いこのノースビーチで育ったので、地元の人々に花嫁を披露するために、教会まで来たのである。

 

 このディマディオはイタリア移民の誇りであり、今でも「サンフランシスコの息子」と呼ばれて愛されている。ノースビーチには彼の名前のついた子供の遊び場がある。


 さて、話はもどって、ジアニーニは義父の「コロンブス・セービングとローン」で銀行の仕組みを学んだが、そのやり方には賛同できないところが多く、ジョゼッペが死ぬと会社を去り、仲間からの融資を受けて、1904年に自分の銀行を開いた。

 それが「バンク・オブ・イタリア」である。銀行といっても、窓口がひとつの小さな金貸しの店だった。


 彼はノースビーチに住む貧しい人々、どこの銀行からも相手にされない人々、特にイタリア移民にお金を貸そうと考えたのだった。

 彼はお金を貸す時に、彼らがいくらもっているかではなくて、彼らがどんな人格なのかを重視したのだという。

 ジアニーニは「顔を見ればどんな人かわかる」と言っていたが、彼はノースビーチで育ったから、そこに住む人々のことをよく知っていたのだと思う。


 そして、1906年の早朝に大地震が起きた。

 ジアニーニは火事が起きるかもしれないと考えて、ゴミ回収の馬車を借り、店にあった書類とお金2百万ドルをその馬車に積み込み、その上に野菜を乗せて、約28キロ離れたサンマテオの自宅まで運んだのだ。

 彼は188センチもある大男で、体力もあったので、ノースビーチで無頼漢相手に仕事ができたし、こういう力仕事もできたのだろう。


 3日後に火事が収まった時、サンフランシスコに戻ると、銀行は焼けてしまっていた。それで、ジアニーニは樽の上に板をのせて、そこを臨時の店として、営業を始めた。


 他のほとんどの銀行では、お金や顧客リストを失い、営業再開のめどがたっていない時、ジアニーニは復興のために預金や貸付けを開始したのだ。

 それも、ローンの難しい申込書とか、審査期間というものはなくて、ただの握手で借りられたのだという。

 ジアニーニの話によると、その時貸したお金は、後にすべて返却されたそうだ。


 これをきっかけに彼の銀行は大きくなり、名前も「バンク・オブ・アメリカ」に変更、世界的銀行になり、今日にいたっている。

 

 彼が79歳で亡くなった時、手元には50万ドルのお金しか残っていなかったという。ビリオネアの彼にしては随分と少ない。しかし、それは彼が意図的にそうしたもので、彼は何年も給料というものを受けとらず、大学などに何億もの寄付を続けていたのだ。

「自分は金持ちになりたいとは思ったことがない」

 と彼は言っていたそうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る