世紀の裁判(1) ホワイトは超有能な建築家だが・・・


 ジュリア・モーガンのところで少し書いたのだが、彼女にフェアモント・ホテルの仕事が回ってきたのは、契約していた建築家が突然死んだからなのだった。


 その死んだ建築家というのがスタンフォード・ホワイト(1853-1906)で、当時、ニューヨークで一番有名な建築家だった。

 彼はニューヨークのワシントン・スクエアのアーチとか、日刊新聞ニューヨーク・ヘラルドのビル、またロードアイランドの州会議議事堂や裕福な屋敷など、たくさんの建物を設計した。


 ところが、このホワイトは1906年の6月25日の夜、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン屋上の劇場で、ミュージカルを観劇していた。そこも彼が設計したものだが、ミュージカルの幕間に、ホワイトは大勢が見守る中で、射殺されてしまったのだった。


               

 ホワイトをピストルで撃ったほうはハリー・ソー(1871-1947)いう男で、彼はビッツバークに住む大金持ちだった。

 ソーは3発発砲し、2発は顔に、1発は肩に命中して、建築家は死んだ。


 ハリー・ソーの父親は東部の石炭と鉄道で儲けた男爵で、ハリーは父がなくなった時、莫大な遺産を受け取っていた。彼はまたハーバード大学をでたインテリで、エヴェリン・ネスビットという22歳の美しいモデルでミュージカル女優のイベリン・ネスビットと結婚したばかりだった。

 彼は3日後にはその妻とヨーロッパに向けて旅に出ることになっており、それでニューヨークに来ていたのだった。

 

 事件を知った人々は、ハリー・ソーは激情しやすい気質でもあったから、これは死刑になるに違いないと思った。

 

 ハリーの母親はこの裁判は「一時的精神錯乱」でいくしかないと思い、優秀な精神分析医を集めようとしたのだが、ハリーは拒否して真向から戦うことになった。


 1907年の1回目の裁判では陪審員が有罪か無罪か決められず「評決不能」という結果になり、その翌年の2回目の裁判ではハリーは無罪になったのだった。


 この裁判は「世紀の裁判」と呼ばれ、資料もたくさん残っている。


 この事件も裁判も東部ニューヨークが舞台であり、西部のサンフランシスコとは関係がないのだが、ここまで書いてパスするわけにはいかないので、どうして彼がホワイトを射殺し、どのような証言で無罪になったのか、次回に少しだけ書いてみたい。


 近況ノートには獄中のハリー・ソーの写真を載せた。牢屋の中にはいても、食事はレストランから配達させ、ベッドも特別なものだというから、特別待遇。こんなことができるのかと、驚くばかりである。

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