1906年の大地震(6) 金色の消火栓

 余談のさいごは、ミッションパークにある金色の消火栓の話です。

 このあたりには1906年の大火災で焼けなかったビクトリアンの家々が残っています。それはこの消火栓のおかげ、という話です。


              

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 サンフランシスコには、たったひとつだけ金色に輝く「魔法の消火栓」とか、「リトル・ジャイアント」と呼ばれる消火栓がある。場所はミッション地区のドロレス公園の近く。(近況ノートに写真をアップ)


 1906年の4月18日に起きた大火事は、風にのってまるで飢えた怪物のように、2日間、市内の中心部で暴れまくり、壊すものがなくなると、今度はマーケット通りを南に向かった。


 家を失った大勢の人々は、市の南にあるドロレス・ミッション教会の近くの広いドロレス公園に逃げてきていた。

この怪物は、そちらをめがけて攻め寄ってきたのだった。


 そのあたりは高台になっていて、消防車は重いホースを積んで、なかなか登りにくい場所なのだ。それより、なにより、この2日の戦いで、町の水は枯れ、どの消火栓からももう水が出なかったのだ。そして、消火用の水槽も、用意されていなかったからお手上げ状態だった。


 勢いをつけて襲ってくる炎と煙、まるで地獄絵だった。人々はこの世の終末がきたのかと、震えたのだった。


 さて、この近くに、ジョン・ラフェリィという鍛冶屋が住んでいた。

「火事場の馬鹿力」という言葉ある。いざという時には、すごい力がでるという意味である。


 ジョンの場合は本当に「鍛冶屋」のそれというか、その夜、なにか、ぴぴぴときたらしい。

 ミッション公園の20番通りにあるある消火栓から、水が出るのではないかと、そう思いついたのだった。


 走っていって、栓を開けてみたら、出た!

 枯れたはずの水が、消火栓からどんどん流れだしてきたのだった。


 それを知って、公園に避難していたいた何百何千という市民がやってきた。消防車のホースをかつぐ物、バケツや雑巾、なんでもありったけのものをもって火を消すのに協力したのだった。中には、家の屋根に上がって、飛び散る毛布で火の粉と戦った人々もいた。


 猛火との戦いは7時間、それは朝の7時まで続いたが、夜通し、その消火栓は水を流し続けた。

 そして、大火事は、ついに、ここで食い止めることができたのだった。


 その水がどこからきたものなのか、どうしてこの消火栓の水だけが枯れないのかわってはいないが、近くのツインピークスの麓に、いつでも湿っている土地があるのだが、きっとそこからの水ではないかと私は思う。


 それで、人々はこの消火栓のことを「魔法の消火栓」と呼び、毎年の地震記念日の4月18日に、感謝をこめて、金色のペンキで塗るのである。(今ではスプレーペインだが)



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 少し枚数に余裕があるので、ビクトリアンハウスのことを書いてみます。

 ビクトリアンハウスとは英国のビクトリア女王の時代に建てられた建築様式の家で、木造で、間口が狭く奥に長く、二階か三階建てで、玄関の前には階段があります。


 こういうビクトリアン様式の家はアメリカのいたるところにあります。でも、サンフランシスコほど密集している場所はないそうです。


 サンフランシスコではゴールドラッシュの1849 年から1915年までの間に、4万8千軒のビクトリアンの家が建てられたということです。

 一概にビクトリアンハウスといってもいろいろあり、非常に手の込んだものから、デパートのカタログで注文した安価のものまであります。

 

 一番有名なビクトリアンハウスと言えば、テレビの「フルハウス」でしょう。ここは人気スポットで、家の前の「アラモ・スクエア」には、いつも観光客がレンズを向けています。背後にサンフランシスコが見えるのも、人気の原因でしょう。{近況ノートに写真を載せました)


 あの「ペインテッド・リディズ」と呼ばれるビクトリアンハウスは1850年に建てられたもので、火災を逃れました。なぜ「化粧した婦人」と呼ばれるのかというと、英国のビクトリア女王の時代、いろいろなの色のペンキが開発されて、家がカラフルに塗られたからだそうです。


 ドロレスパークをさらに南のほうに上がって行くと、芸術的なビクトリアンハウスが見られます。

 そのあたりに数年前にフェイスブックのザッカーバーグ夫妻が家を購入しました。こういう裕福なセレブが住むのはパシフィックハイツかシークリフ地区に決まっているのに、意外なところに家を買ったと思い見に行きました。けっこうおもしろい界隈ですが、ミッション地区は危険なところも多いので、私なら避けますが。

 その家は急な坂の上にあり、鉄柵で囲まれてはいますが、中はよく見えます。門を出ると前がものすごい傾斜なので、ベビーカーの手は離せないと思いました。あまり関係のない話でした。


 このドロレスパークから少し離れたところにミッション・ドロレス教会があり、それ(小さい建物のほう)はサンフランシスコで一番古い建物です。


 スペイン人のセラ神父が率いるフランシスコン会の宣教師たちは、カリフォルニアの各地に21の宣教所を作りました。

 サンフランシスコではこのドロレスパークのあたりの広い土地を塀で囲い、その中に教会(オリジナルのドロレス教会)を建て、アメリカン・インデアンをキリスト教に改宗させて、野菜を作らせました。そして、それをプレシディオの兵隊たちのところに運ばせました。

 

 プレシディオはスペイン植民地時代の1776年に、サンフランシスコの北西(ゴールデンゲート・ブリッジがある方向)に築かれた砦で、そこの兵士と家族のために食料が必要だったのです。


 さて、キリスト教に改宗しなかった原住民は虐殺され、その数は(カリフォルニア全体で)6万から150万人だと言われてます。

 詳しい記録がないので、正確な数はわからなのですが。カリフォルニアの黒歴史です。


 ミッションドロレスはサンフランシスコの南西にあり、プレシディオ北西の端にあるので、このふたつは随分と離れています。原住民はここで野菜を作り、牛の乳を搾り、それをどのようにしてプレシディオまで運んでいったのだろうと考えたことがあります。


 馬車を引いて坂を下りダウンタウンのほうへ行き、プレシディオまで運ぶとしたら、半日はかかるはずですから、さぞ大変だっただろうと思っていました。

 数年前に、ミッションドロレス教会とプレシディオ(今は国立公園)の提携で、「教会からプレシディオまで歩く会」というのが催されました。

 どのようにしていくのか、ぜひ知りたいと思って出かけたら、メキシコ系の人達がたくさん参加していました。


 それでわかったことは、ドロレス教会からダウンタウンのほうに下るのではなくて、カストロ(GLBTの地区)として有名)のほうに少し上がり、そこからパシフィックハイツの方向に行くのです。すると、プレシディオの入口まで、なんと1時間。

 えー、こんなに近いのだ、と驚いたことがありました。









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