19世紀最大のスキャンダル(2) テリーとブロデリックの決闘
前回の付け足しなのですが、裁判でサラがシャロンと結婚していたことが事実だと認めたられのには、ネリ―という友人の証言がありました。前回では少ししか触れなかったので、ここでもう少し詳しく紹介してみます。
彼女はネリ―・ブラッケッという17歳で、サラの友達であり、取り巻きでした。
証言の中で、ネリ―はシャロンのことを「セネター(上院議員)」と呼びます。
下がネリ―の証言です。
あの日、サラと私はパレスホテルのシャロンの部屋にやってきました。サラが化粧室を使うためで、数分で帰る予定でした。
ところが、突然、セネターがはいってきたので、私は急いで家具の後ろの狭いスペースに隠れました。それで、私はその狭い場所に、午後の4時半から 11時までいることになったのです。
セネターは部屋にはいってくるとまず洗面台で手を洗い、髪をブラッシングし始めました。
そこにサラが現れたので、「ブラッシをしてくれないのかい」と訊きました。それで、サラはブラッシングをしてあげました。
それが済むと、セネターは「いつものように足をマッサージしてくれないのかい」と言ったので、サラは「わかったわ」と足をマッサージをしてあげました。
サラはすぐに帰るつもりだったのですが、セネターは泊まっていくように言いました。
セネターは娘のフローラとの夕食の約束をキャンセルにして、サラと過ごしたいと言いました。サラは最初は断っていたのですが、結局承諾して、部屋に食事を運ばせました。
その後、ふたりは衣服を脱いで、同じベッドで眠ることになりました。
途中で、サラがベットから下り、家具に足をぶつけるジェスチャーをして、家具をすこしずらして、私に隙間を作ってくれました。
私はセネターがすっかり寝てしまったのを待って、ようやく部屋から抜け出し、トイレに急いだのです。
セネターはその日、何度もサラを「マイ・ワイフ」と呼んでいました。
*
1885の8月、シャロンが連邦裁判所のほうに控訴していた「書類偽造」、つまりサラとの結婚は無効であると訴えた裁判が予審を経て、いよいよ始まった。
当時は判事の数が足らず、国の最高裁判所の判事も、時間がある時に、巡回裁判のために、各地を回っていた。その時の、巡回判事長としてやってきたのが、フィールドという判事だった。
このフィールドは3年前、カリフォルニアでの裁判長時代に、テリーと席を並べていたのだった。
このテリーというのはサラの弁護士壇に加わった元判事のことである。
話はさかのぼり南北戦争以前のことになるのが、このフィールドは北軍を支持し、一方テリーは南軍を熱狂的に支持していた。
当時カリフォルニア州では南部の農場主に同情する人が多く、奴隷解放には反対する者が大半だった。
共和党のリンカーン大統領の共和党は奴隷解放を訴えており、その共和党のカリフォルニア代表の上院議員に、ディビッド・ブロデリック(1820-1859)がいた。彼は温厚な人柄で、人々から人気があった。このブロデリック議員は、フィールド判事と友達だった。
ある日、テリー判事とブロデリック議員が政治のことで話していたのだが、議論がそれが白熱して、
「では、決闘で片を付けよう」ということになってしまった。
熱血のテリーが仕掛けたのだと言われている。そうでなければ、あの穏やかなブロデリックが、決闘を言い出すなんてことはありえないのだから。
テリー判事は190センチほどもある大男で、いつもポウィナイフという大きなナイフをコートの下に持ち歩いており、血の気が多いので有名だった。
テリーのこんなエピソードがある。当時、サンフランシスコてでは治安が非常に悪く、人々を守る目的で自警団というものが結成された。その自警団はしだいに力をつけ、勝手に裁判をして人を裁き、時には首つり刑を行ったりもするようになった。
その自警団の勝手さに腹をたてたテリーが、その団長の首をポウィナイフで切りつけ、怪我を負わせた事件があった。
しかし、彼が判事だったからなのか、テリーにお咎めはなかった。
テリーは自分の信じる正義のためには、かっとなる男のようである。
1859年の9月3日、テリーは決闘の前日に、裁判所に辞表を出した。現職判事が問題を起こすのは不名誉なことなので、テリーは判事を辞めておいたのだ。
元判事になったテリーとブロデリック上院議員は、オーシャンビーチに近いマーセッド湖のそばで、決闘をすることになった。
銃の使い方も知らないプロデリックに対し、テリーは練習を重ねていたらしく、プロデリックは胸を撃たれて病院に運ばれたが、3日後に死んだ。(決闘の様子を近況ノートにアップします)
このプロデリックの死が引金になって、南部寄りだったカリフォルニアの人々の気持ちが、北部に傾いたとも言われている。
さて、テリーのほうだが、逮捕されることなく、姿を消した。
その頃、サンフランシスコの市内では決闘は違法だった。しかし、このマーセッド湖は、当時は市外になっていたので、その範囲ではなかったのだ。
南北戦争が始まるとテリーはテキサスに行って南軍に参加し、大佐にまでなったのである。しかし、南軍が敗れると仲間を連れてメキシコに行き、そこで独立国を作ろうとした。けれど、それはうまくいかず、1886年にサンフランシスコに戻ってきていたのだった。
フィールドのほうは南北戦争の後、リンカーン大統領の指名により、最高裁判所の判事になったのだった。フィールドはブロデリックの親しい友人だったから、彼を射殺したテリーのことを憎んでいた。
それで、裁判書類の中にテリーの名前を見て、この裁判を引き受けることにしたらしい。
その裁判の書類ときたら、1700枚以上というという膨大なもので、審査には時間がかかった。
その審査の間に、シャロンが64歳で亡くなった。
「どんなに裁判にお金がかがろうも、サラ・ヒルには1セントも渡すな」
という遺言を残して。
その判決が出た時もクリスマスの翌日で、
「書類は偽造」と読み上げられた。
つまり、フィールド裁判長の判決では、シャロンとサラは結婚はしてはいないのだった。
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