19世紀最大のスキャンダル(3) テリーの献身
結婚証明書が偽装だという判決が出て、怒りの収まらないサラだったが、前年に妻を失くしていたテリーは同情が愛に変わったのだろうか、ふたりは結婚したのだった。
その時、テリーは62歳で、サラは32歳。
テリーはテキサス風に言えば男の中の男であり、南部の人々からは慕われていた。けれどサラと結婚したことにより、去っていった友達が多かったという。
「妻を娼婦と呼ばせるわけにはいかないのだ」
テリーは常に言っていた。
サラに、本気で惚れてしまったのだった。
1888の1月、今度は、サリバン裁判長のサラが勝利した判決について、シャロン側が不服として控訴していた件での判決があった。ややこしいのだが、こちらは書類偽造とは別件の裁判で、まだふたりの結婚、離婚は認められていた。
この裁判により、前に認められた生活費が2500ドルから500ドルに減らされ、弁護士費用の支払いは保証しなくてよいということになった。
シャロンが生きていた時は500ドルもらっていたのに、死んだ後に、それ以上もらうというのはおかしいという判断だった。当時の人の平均給料が100ドルなのだから、500ドルあれば十分なはずである、と。
サラはすぐに控訴した。あれはシャロンが生存中に結審したことで、彼が死んだ後での金額の変更はできないはずだ。だからこの裁判は無効であると訴えた。
すると、シャロンの子供達は、死んだ父親に代ってこの裁判を引き継いでいきたいと、「訴訟維持権」を訴えた。
その9月に、その「訴訟維持」についての裁判があり、それが認められたのだ。そして、その時の裁判長は、またあのフィールドだった。
フィールド裁判長が判決を下した時、サラが椅子から立ち上がり、
「こんなの、おかしいわ」
と叫んだ。
フィールドは「マダム、坐りなさい」
と命令した。
サラがまた何か言いかけようとしたから、フィールドは
「その女を坐らせなさい」
と保安官に厳しく命令した。
「フィールド判事、あなたはいくら賄賂をもらったのか、私は知っているのよ、シャロン側に、買われたってことを知っているわ」
とサラが叫んだ。
「保安官、その女を早くつまみ出しなさい」
とフィールドが保安官に命令したので、サラは泣きながら、引っ張られていこうとした。
その時、
「妻には、指1本触れるな」
とテリーが威圧感のある声で言った。
保安官はぎくりとして一瞬ためらったものの、それでも、サラを連れだそうとして、身体を押した。
それを見たテリーは椅子から立ち上がり、そばに駆け付けて、保安官にパンチをくらわせた。
保安官は床に倒れ、口から血が流れだした。歯が折れたのだった。
それで部屋にいた警官、職員などが総がかりでテリーに飛びかかり、暴れる大男をようやく抑えつけた。
噂によると、その時、サラはハンドバッグにコルト銃を隠し持ち、テリーのほうは上着の内側にボウィナイフをいれていたというのだが、真相はわからない。
これらの罪で、テリーは6カ月、サラは1カ月の禁固刑を言い渡された。
このショックで、サラはテリーの子を流産をしたのだった。
シャロンの息子達は裁判を連邦最高裁までもっていったが、最高裁は「シャロンとサラとの結婚について」審議することを拒否し、この件は州に戻された。
州の高等裁判所では、「ふたりの結婚は秘密」だったということは、法律的には結婚ではないという解釈をした。
つまりシャロンとサラの結婚も離婚も無効で、これまで値下げはされたが支払われていた月500ドルの慰謝料が、今度はゼロになってしまったのだった。
それを聞いたサラは気が狂うほどの怒ったが、自分にはテリーという強い味方がいるのだ。彼が刑務所から出てきたら、きっと何か考えてくれるはずだと夫の帰りを待ちわびた。
翌年、テリーが出所した。テリーもこの裁判を諦めてはおらず、次の作戦を考えていた。大体結婚を秘密にしていたから「結婚は無効」という州の論法はおかしいから、覆せるはずだった。
そんな1889年の8月14日、ふたりはロスアンジェルス近くのフレスノの別宅から汽車に乗り、サンフランシスコに帰るところだった。
ところが、なんという運命のいたずらなのだろうか、同じ汽車に、あの因縁のフィールド判事が乗っていたのだった。サラは初めはそのことを知らなかった。
汽車が朝食のために、サンフランシスコとヨセミテの中間に位置するラスロップという駅に止まった時のことである。当時は食堂車というものがないので、汽車はいったん停車し、乗客はその駅の食堂で、食事をするのである。
サラはフィールドが食堂にいるのを見つけて、大慌てで、テリーを呼びに行った。 テリーはすぐに駆けつけて、フィールドの顔を2発殴った。
それを見た護衛のニ―グルが発砲したから、テリーは射殺されて、その場で死んだ。
「懐からナイフを取り出そうとしたので」
とニーグルは裁判で証言した。
しかし、調べてみるとテリーはポウィナイフをもってはいなかった。
それで、ニーグルは逮捕されたのだが、最高裁判所で論議された後、無罪になり釈放された。
この事件により、政府役人とか、裁判長とかの人達が襲われた場合、警察官は犯人が危険物を持っていることが確認できなくても、射殺してもようという法律ができたのである。
テリーを失くしたサラはその後、精神に異常をきたしストックトンの精神病院にいれられ、そこで45間年生きて、亡くなった。
*
サラの墓はストックトンにあるテリー家の墓地の敷地内にあります。
その写真を見て驚いたことがあります。
テリーのほうは名前の下に、「彼は大佐で、南軍のために働いた」とあり、生年没年が書かれています。これは普通のパターンです。
ところが、サラのほうは、鏡台型の墓石の鏡に当たる部分には「Died, Feb.14 1937, aged 80 yrs」とだけ刻まれて、名前がありませんから、一見、誰の墓だかわかりません。
でも、よくよく見ると、上の縁の部分に、「サラ・テリー」とあります。(近況ノートに掲載します)
墓石の上の細い部分に刻まれたのは見たことがありません。どういうことなのでしょうか。
この墓を作ったのは、テリーの息子か孫でしょう。
サラを家族の墓地にいれるのは、テリー家にとっては迷惑なことだっことでしょう。しかし、サラが、一家の誇りであるディビッド・テリーの妻だったことは確かなことなので、まあ、ここに埋葬するのは仕方がないと、こういう形になったものと思われます。
もし、私が若い頃にテリーのことを知ったら、すぐにかっかするおじいさんなんか大嫌い。なんて滑稽な親父だと思ったことでしょう。
でも、今、このテリーのことを考えると、特にさいごのほうの人生は、サラという女性を一途に守り続けた男らしい生き方ではなかったか、と思ったりもします。
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