女性建築家ジュリア・モーガン(1) チャンスが訪れた日

「You've Come A Long Way, Baby」

「ここまで来るのに長くかかったね」というような意味です。


今はもう煙草の宣伝はなくなりましたが、以前「バージニア・スリム」という女性用の煙草が発売された時、よくこういう宣伝文句の看板を見かけたものです。 


 私は煙草は吸いませんが、このコピーは大好きで、時々思い浮かべます。


 「You've Come A Long Way, Baby」

 今回取り上げるジュリア・モーガンという女性建築家も、この言葉にぴったりな女性です。


 ジュリア・モーガンの名前は、他では知られていないかもしれませんが、カリフォルニアの特に女性の間では、知らない人がいないくらい有名な人です。


 彼女はサンフランシスコを基盤にして、生涯に700以上の建築にかかわりました。その中で、一番有名なのが、サン・シメオンの丘の上にあるハースト・キャッソルです。サンフランシスコから380キロ離れたサン・シメオンの丘に立っている城のような豪邸は、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが依頼したものです。

 完成するのに28年かかり、部屋数100以上、教会、図書館、屋外だけではなく屋内にもプールがあり、ここまでやるかという度肝を抜かれる豪華さです。

 

 これは20世紀初頭の話で、こんな大プロジェクトになぜ女性の建築家が採用されたのかというと、ハーストの愛人ではなかったのかと邪推がされそうですが、そういうことは全くありません。


 ジュリアが建築家として認められるまでは、「Long way」でしたが、大きなチャンスをつかんだきっかけは1906年の大地震の時で、34歳でした。

 


             *


 ジュリア・モーガン(1872-1957)はサンフランシスコで生まれた。


 彼女が建築家になりたいと思ったのは、母方の叔父にピエール・レバーンというニューヨークのメトロポリタン・ライフタワーを建てた建築家がいて、彼に憧れたからだという。


 ジュリアはカリフォルニ大学バークレー校の建築科を卒業した後、当時の先輩たちに習って、彼女もパリに行った。そこのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で勉強したかったのだが、女性だったためか2回不合格した。

 ねばって3回目で合格、最初の女性入学者だったそうである。


 パリで勉強するのにお金がいる。どのようにして工面したかというと、母方の祖父に負うところが大きい。

 ジュリアの父親のチャールズは海運の仕事をしていたが、成功していたとは言えなかった。一家には5人の子供がいて(ジュリアは次女)、経済的には母エリザの父アルバート・パーマリー(1806-1880)からの援助があったし、遺産もはいった。祖父のパーマリーはコットンで儲けた大富豪だったのだ。


 ジュリアは30歳でボザールを卒業した後、サンフランシスコに戻り、他の事務所で働いた。免許がないと、自分の事務所が開くことができないのだ。

 1904年、32歳の時にようやく建築免許を取得することができた。

 

 ジュリアの前には、ニューヨークにルイーズ・ブランチャード・ベスーン(1856-1913)という女性の建築家がいたが、ジュリアはカリフォルニアでは免許が下りた第一号だった。


 しかし、建築ができる免許をもらっても、仕事がすぐにはいってくるわけではなく、ジュリアが手がけたのは、家の修理とか、改築とか、そういう仕事だった。


 ジュリアが免許を取得して2年後の1906年、サンフランシスコに大地震とそれに続く大火災があり、火事は3日間続き、市の8割の建物が崩壊した。


 崩壊したと言っても、豪邸にはたっぷりと保険がかけられていたこともあり、お金には困らない人々は、我先にと有名な建築家との契約を結んだ。

 

 ところで、ノブヒルでは、世界級の豪勢ホテル、フェアモント・ホテルが完成し、数日後にオープンを控えているところだった。

 あのビッグ・フォーの豪邸はそろってはそろって焼失したが、フェアモント・ホテルは幸い全壊は免れたのだ。特に破壊がひどかったのは玄関とロビーの部分で、あとは内部の火災による被害で、修復すればホテルとして使えそうだった。


 フェアモント・ホテルは父のジェームズ・フェア(1831-1894)を記念して、ふたりの娘たちが建てたもので、フレアモントとは「フェアの丘」という意味である。

 フェアはアイルランドからの移民で、やはり1849年にサンフランシスコにやって来た。彼はいろいろな仕事をしていたが、やがて銀に投資して、一晩にしてミリオネアになったのである。


 フェアはビッグ・フォーの屋敷の前に土地を買ってあり、彼の夢はそこに宮殿のような屋敷を建てることだった。しかし家を建てないで死んでしまった。それで、娘たちが父親の夢を叶えようと、その土地に、超一流のホテルを建てることにしたのだった。


 フェア姉妹は、ホテルの崩壊部分を直すために、まずニューヨークに住む当時一番の建築家と契約をした。

 それが、スタンフォード・ホワイト(1851-1906)で、当時55歳。彼はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを設計した建築家で、名声をほしいままにしていた。


 フェア姉妹はスタンフォード・ホワイトと契約ができて、これで一安心と思ったのだが、わずか約2ヶ月後の6月25日、彼は突然、死んでしまった。

 それも、大勢が見ているところで射殺されたのだ。(この件については、後述します)


 それで、フェア姉妹は急いで代りの建築家を探したのだが、改築ができるような腕のある建築家はすでによそと契約をしていた。引き受けてくれそうな建築家は1年での修復時間ではできるはずがないと言ったので、もう頼める建築家がいなかった。


 しかし、その時、残っていたのがジュリア・モーガンで、彼女はすべての条件を飲み、期間内でやってみせると言った。


 150センチ45キロの小柄のジュリアだが、彼女はこの大仕事を請け負い、不可能だと言われていた短い期間で、注文主の希望するようにやってのけたのだ。

 そして、地震から1年後の4月18日、フェアモント・ホテルは華々しくオープンすることができた。

 

 その様子を見ていた新聞王ハーストの母親が感心し、自分の邸宅を頼み、その縁で、息子がサン・シメオンの丘の上にハースト・キャッスルを建てる際、ジュリアを推薦したのだった。


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