19世紀最大のスキャンダル (1) シャロンとサラ・ヒルの事件簿
今回はラルストンを死に追いやる原因になった蛇のような男、ウイリアム・シャロン(1821-1885)の話です。
ラルストンが死んだ後、パレスホテルも、ラルストンのベルモントのふたつの邸宅も、すべてシャロンのものになりました。
オープンしたパレスホテルには、大統領や外国からは国王などの賓客が宿泊して、大繁盛です。その豪華さから、ホテルは「カリフォルニアのプライド」と呼ばれました。
またシャロンには3人の子供がいましたが、娘のために、ラルストンのベルモントの屋敷では、カリフォルニア一と言われるほどの盛大な結婚式を催したでした。彼は評判のよい人間ではなかったのですが、家族にはやさしかったようです。
そのシャロンは上院議員でもありました。しかし、一度もワシントンDCには行ったことのないという傲慢な議員でした。
そんなことで議員が務まったかと思うのですが、権力とお金のある人には、何でもが可能になった時代なのでした。
でも、そんなシャロンに鉄槌が下される日がやってきたのです。
この回ではいくつかの裁判例が出てきますので説明しておきますと、裁判には刑事と民事があります。刑事は負けると罪に問われ、監獄行きになります。民事では、いくら払うとか払わないとかいうお金の問題です。離婚裁判は民事の中に含まれます。
*
1883年の9月8日の朝、シャロンはパレスホテルの自分の部屋にいたのだが、そこに警官がどやどやとやってきて、彼は突然逮捕されたのだった。
その容疑はなんと「姦通罪」、ある女性が訴えたのである。今では姦通罪はもうないのだが当時は罪で、これは刑事事件である。
その時、彼は62歳で、妻はすでに亡くなっていた。
彼は女性と遊ぶのが一番の趣味であり、そのことは周囲にも知られていたが、いつも相手にはお金を払っていた。それに、妻がいないのだから、それは「姦通」とか「不貞」とかではないはずである。
彼はすぐに保釈金を積んで保釈され、
「自分は独身なのだし、そんなことはあるはずがないではないか」
と言い残して、予定されていた旅行に出ていった。
世の人々も、彼は女好きな男ではあるが、まさか「姦通」とか「強姦」はないだろうと思った。
ところで、訴えたのはサラ・アルシア・ヒル(1850-1937?)という美しい女性だった。年齢ははっきりせず、27歳だったとも、32歳とも言われている。
サラが語るところによれば、ふたりは2年前に正式に結婚したのだった。それにはれっきとした証拠があるのだという。
それを聞いたシャロンは新聞記者に
「そんなのは全部作りごとだ。こちらは年寄りの魚なのだから、そんな餌では釣られはしない」
とコメントした。
これに対してサラは、ちゃんとした結婚証明書があるのだと言った。
「見せる用意があります」
両方が弁護士を立て調停が行われたが、それは不成功に終わり、シャロンは翌月、連法裁判所に「文書偽造罪」でサラを訴えた。
サラのほうは、カリフォルニア州の最高裁判所(日本でいえば、地方裁判所にあたる)に「離婚と慰謝料」を求めて、民事裁判を起こした。
さて、サラ・アルティア・ヒルのことだが、彼女はミゾーリー州で生まれた
父親は弁護士だったそうだが、両親はサラが小さい時に亡くなった。しかし、財産は残してくれたので、サラと兄のモーガンはちゃんとした教育を受けることができた。成人すると、両親の残した遺産が2万ドルずつ 手にはいったので、それをもって、ふたりはサンフランシスコにやってきたのだった。
この兄妹は目立って端正な顔立ちをしていたという。(近況ノートにサラの写真をアップしました)
サラによれば、シャロンと出会ったのは1880年、カリフォルニア銀行近くの路上だそうだが、本格的に知り合ったのは、サラが投資のことでシャロンに相談にのってもらった時だという。サラは投資のために、持っていた財産の7500ドルを彼に渡した。以後、一緒に、食事などするようになったのだった。
そんなある日、シャロンが、
「私を愛するようになってほしい」
と言ったのだという。
サラが断ると、「妻が死んでから出会った女性の中で、誰よりも好きだ。愛しているから、結婚したい」
とプロポーズしたのだった。
それでサラも彼が本気だとわかり、イエスと答えたのだった。
すると彼は「結婚しても、2年間秘密にしてほしい」と頼んだ。
それは今、フィラデルフィアの女性が、自分の子供を身籠ったと言って騒いでいる。それは真実ではないのだが、結婚したということが世間に知れると、彼女が何をするかわからず、そういうことになると次期の議員の席があやうくなってしまうからだというのである。
サラがためらうと、弁護士だったシャロンは、カリフォルニア州では手書きの書類でも、サインをすれば正式に結婚したことになると教え、本棚から法律の本を取り出して、その部分を見せた。
そしてそばにあった便箋に、結婚宣誓の言葉を書き、日付をいれ、サインをしたのだったので、サラも言われたとおり、同じことを書いて、サインをした。
「だから、私達は正式に結婚したのです」
とサラが言った。
結婚したのにもかかわらず、シャロンは9人の女性と関係があったから、姦通罪で訴えたのだった。
結婚するまで、サラはパレスホテルから数ブロック離れた別のホテルに宿泊していた。しかし、それでは目立ちすぎるとシャロンは思ったのだ。
それで、サラはパレスホテルの隣りにあるグランドホテルに住むようになり、月々にお小遣いとして500ドルをもらうことになった。
シャロンはサラの部屋を特別に作り変えさせ、夜になると、グランドホテルとパレスホテルをつないでいたガラスの廊下を通って、会いにやって来たのだった。
ところがぼぽ1年がたった時、シャロンは急に別れたいと言い出して、あの結婚誓約書を返せと迫った。
サラが断ると、翌日、人を使って部屋の絨毯をはがし、ドアを壊し、サラをむりやりに追い出したのだった。
だから、サラはまずは「姦通罪」で訴えたが、それが却下されたから、今度は「離婚と慰謝料」を求めて、民事裁判を起こしたのだった。
裁判でのシャロンの言い分は、付き合いはしたが、結婚などはしていない。確かに500ドルは払ったが、それは彼が娼婦と遊ぶ時に払う通常の値段で、サラもそういう女のひとりなのだと主張した。
「それに、サラと別れる際には、特別に手切れ金も払った。そのどこに問題があるのだ」
「いいえ。その時もらったのは手切れ金ではなくて、投資のために彼に預けてあった私自身のお金です」
とサラが言った。
サラが結婚していたという証拠として、シャロンからもらった「私の愛する妻へ」と書いた手紙を見せた。
またサラの若い女友達のネリーは、ある夜、寝室の家具の裏に隠れて、ふたりの様子を観察していたことがあった。その時、シャロンが「マイ・スイート・ワイフ」と何度も呼ぶのを聞いたと証言した。
その判決が出たのは1884年のクリスマスイブで、その裁判はサラの勝利だった。
サリバン判事はふたりが結婚していたことを認め、その上で離婚を許可、シャロンに、共有財産の半分と、月に2500ドルの慰謝料、55000ドルの弁護料を支払うように言い渡した。
サラは大喜びで、さっそく贅沢な買物をし始めたが、シャロンは判決を不服として控訴した。
ところで、その判決の前年、デビッド・テリー(1823-1889)という60歳の弁護士が、サラの弁護団に加わった。
テリーも1849年のゴールラッシュの時にテキサスからやってきたひとりだが、彼がめざしたのは金ではなく、法律の世界だった。
彼は弁護士として成功し、カリフォルニア州の高等裁判所判事になった。しかし、ある事情で、しばらくカリフォルニアを離れていた。そして、サンフランシスコに弁護士として復職したところだった。
ところで、このテリーという老弁護士が、サラの人生に深くかかわることになるのである。
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