ミリオネア第一号サム・ブラナン、その成功と転落(2)
話を進める前に、前回は年代がたくさん出てきてややこしかったと思いますので、ここでまとめをしておきます。
☆ 1846年、合衆国がメキシコに宣戦布告、モンゴメリー艦長がサンフランシスコの 丘に星条旗を立てる
☆1846年、星条旗が立った8日後、ブラナンがサンフランシスコに到着
☆1848年 1月24日、 サクラメント近くのアメリカンリバーで砂金発見
☆1848年2月 カリフォルニアが合衆国のものになる
☆1848年5月 ブラナンが「金がでたよ」のパフォーマンス
☆1848年12月、 ポーク大統領がカリフォルニアに金が出たことを発表
☆1849年、世界中から、金を求めて、人々がやってきた
ここでおもしろいのは、金が発見されたのが1848年の1月24日だはっきりと記録に残っていることです。そのことはふたりのひと(発見者とボス)しか知らないはずなのに。こういう記載がしっかり残っているのは、裁判になった証拠です。
その話は次回にして、今回はミリオネアになったブラナンが、なぜ破産してしまったかという話です。
*
サム(サミュエル)・ ブラナンは東部での迫害を逃れて、モルモン教徒の仲間を率いてサンフランシスコに来た。
彼はモルモン教の本拠地をサンフランシスコにおきたいと思い、指導者のブリガム・ヤングにそう提案した。
ブラナンは4つのミル(製材所)を持ち、土地を所有などして、受け入れ態勢ができていた。
その頃、指導者のブリガム・ヤングは12,000人の信者を連れて各地を巡り、ユタ州のソルトレイクシティに落ち着いたところだった。
ブリガム・ヤングはサンフランシスコに行くことをためらった。金の発見により人が多く集まりすぎていて、また迫害されることを懸念したのだった。もしかしたら、ブラナンにリーダ―シップを取られてしまうことを恐れたのかもしれない。
当時のブラナンは、無謀と呼べるほどエネルギーに溢れていた。
ブリガム・ヤングはミリオネアになったブラナンに、お金を催促した。モルモンの信者は収入の何パーセントを神への上納金として納めなければならないのである。
ブラナンがいくら送ったのかは不明だが、ブリガム・ヤングは足りないからもっとで送れと何度も要求してきた。
その時、ブラナンは言った。
「神からの領収書を見せてくれたら、送ってやる」
そして、ブラナンはモルモン教から離れたのだった。教会のほうでは、彼を破門したと言っている。
サンフランシスコに来てから、ブラナンの歩んだ道は順風満帆だった。けれど、人の運命はわからない。
彼の運命が狂ってしまった。それは妻のアン・エリーザから離婚されてしまったのである。
あんなに頓智がきき、何でも可能に見えたブラナンだったのに、離婚とともに坂を転げ落ちてしまったのだ。それはなぜだなのだろうか。
ブラナンと妻のアン・エリーザ(1823-1916)はニューヨークいる時に結婚したのだが、結婚して25年目、1868年に妻が離婚を申請した。
妻45歳、夫49歳で、「熟年離婚」というやつである。
この裁判で、裁判所はブラナンに財産の半分を、現金で払うように命令した。
今はカリフォルニアでは、離婚すると、伴侶はともに暮らした期間に稼いだ財産の半分を受け取る権利がある。だから、財産のあるセレブなどは結婚の前に、そのことを(何年結婚していたら、いくらというように)弁護士を立てて決めておく人が多い。
しかし、当時はそうではなく、離婚した妻が夫の財産の半分をもらえるということはなかったのだが。
このアン・エリーザはただの主婦ではなかった。事業の積極的なパートナーだったのである。
アン・エリーザは東部の姉に当ててこんな手紙を書いている。
「私は今は幸せです。でも、ここにいるのは2、3年で、その後はニューヨークに住んで、人生を楽しみたいと思っています。でも、今はお金を貯める時なのです」
「私がこの夏、3ヶ月ちょっとで、安い洋服を作って、どのくらい儲けたのかわかりますか。たとえばパンツにシャツ、ニューヨークで売れば25セントですが、ここでは 1.5ドルで売れます」
「ポケットをひとつつけて、どんな体型にも合うズボンを作ったら、飛ぶように売れました」
「こちらに来る時には、買えるだけの洋服、乾燥食品をもってきてください。何でも売れますから」
こういう手紙が残っているということは、これが裁判に提出されたということだろう。
彼女はサンフランシスコで稼いで、あとは楽しく暮らしたいと思っていたのに、夫は働くばかり。アン・エリーザはパリに行って暮らしてみたかったのだ。このままでは年だけとってしまうと周到な計画のもとに離婚を進めていったのだろう。
それに雇った弁護士も優秀だったに違いない。
こういう離婚では、慰謝料として家を何軒わたすとか、そういうところで手を打つものだが、アン・エリーザの場合には現金を要求した。
ブラナンには不動産はたくさんあったのだが、現金がなかったから、慰謝料を払うためにそれを売却しなければならなかった。
それで広げ過ぎた事業を運転する資金がなくなり、それが躓きの原因だと言われている。
でも、あれほど才気のあるブラナンなら、そこからまたやり直せただろうに、と思うのだが。
「やる気」さえあれば。
彼がこの離婚を機に、やる気を失くしたことは確かなことで、借金がかさみ、彼はアルコール中毒になって一文無しで死んだそうだ。
しかし、その後立ち直って、カリフォルニア南部の国境近くで、国から無料で土地を譲り受け、牧場を始めたという話がある。その牧場を売ったお金を持ってサンフランシスコに戻って来て、借金を全部返却したというのである。
それが本当かどうかはわからないが、彼は南部のサンディエゴの近くで野垂れ死んにしたそうだ。彼が誰か不明だったので共同墓地に入れられ、それがブラナンだとわかったのは1年後のことだったという。
「アメリカンリバーで金が出たよ」のあの一大パフォーマンスをしたブラナンは、すべてを失って、ひとり70歳で死んだ。
やりたいことをやって、カリフォルニアでミリオネアになれたのだし、70歳まで生きられた彼の人生は幸せと呼べるのだろうか。
最期はどうであれ、人生でやりたいことができた人は幸せ者だという考えの人もいるし、いや、どんなに栄光の日々があったとしても、最期が惨めなのはぜったいやだと思う人もいるだろう。
他の人がどう思うかはそれぞれの自由で、そこはコントロールできない。
ブレナンはすべてを失ったが、その名前はサンフランシスコの通りに「ブラナン・ストリート」として残っている。
離婚したアン・エリーザのほうは、望み通りパリに行って暮らした。子供もパリで教育をした。しばらくしてサンフランシスコに戻って来て、持っていた財産を銀に投資した。パリで使った分を取り戻そうと思ったのかもしれないが、株が暴落してすべてを失ったそうである。
それで生活が窮乏してしまったのだが、93歳まで生きた。
*
ブラナンの人生を見て私が思うことは、この人、なかなかよい人かもということ。離婚裁判の詳しいことはわかりませんが、彼が真っ向から戦った様子はうかがえません。その気になれば、現金で半分も払わなくて済んだのでは。
慰謝料を現金で払ったら自滅するとわかっているのに、彼は一番安値の時に、不動産を処理しました。
お酒に走ったのも、妻に対する悔恨の念にかられたからなのかも知れません。
彼は哀れな死に方をしましたが、死んだら、他人から何と言われようとよいではないではないでしょうかね。
私は小市民で、知人も多くはないのですが、それでも、
「あの人が孤独死したって」
「かわいそうに」
と言われたくないと意識している部分があります。
でも、死んだ後に他人からどう思われるかなんか気にしないで今を生きたら、もっと気が楽なのではないかと思いました。
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