幸運なはずなのに、一番不幸になった男サッター
何が幸運で、何が不運になるのか、それは明日の株価みたいなもので、本当のところは誰にも予測がつかない。
金の発見に関しても、そのことが言える。
当時、サンフランシスコの町には数百人の人しか住んでいなかったが、周辺には1000人ほどのヨーロッパ人が入植して、農場などを営んでおり、多数のインデアンがそこで働かされていた。
1848年の1月24日、アメリカ人のジョン・マーシャルという大工が、サクラメント郊外のアメリカ川で、砂金を発見した。
彼の名前とその日にちが、歴史の資料にやたらと詳しく書かれているのには、理由があるのだ。
マーシャルの雇主は、ジョン・サッター(1819-1880)というスイス人だった。
サッターは正規の方法でメキシコ国籍を取り、メキシコから正式に土地をもらって原住民を雇い、大牧場を作ろうとしていた。
町の名前を「ニュー・ヘルヴェテイア(ヘルヴェティアはスイスの正式国名)」とつけ、いずれは新スイス共和国みたいなものを作りたいという夢があった。
彼は大工のマーシャルに命令して、川のそばに製材所を作らせていた。水力を利用して、木材を切るためである。その製木所のそばで、マーシャルは川にきらきら光る砂を発見したのだった。
マーシャルはそれをサッターの所にもって行って見せた。
「ボス、この光るものは何ですかい」
「ちよっと待て」
慎重なサッターは書物と照合したりして調べ、これは本物の砂金に違いないと思った。
「このことは、ぜったいに誰にも言うな」
サッターはマーシャルには、決して口外はしないようにと厳命した。そんなニュースが漏れたら、人々が自分の土地にはいってきて、牧場計画が駄目になるのを恐れたのだった。
けれど、砂金のことは別の使用人に伝わり、彼らがそれを近くのブラナンの所有する店でお金の代わりに使ったことから、そのことがサンフランシスコのブラナンの耳にはいったのだった。
ブラナンはそのニュースを自分で出かけていって確認した後、自分の商品を売るために、あれこれ考えたのだった。そして、砂金をいれた瓶で町を叫び歩くという画期的なパフォーマンスをしたのだった。
その後、ポーク大統領が議会でカリフォルニアに金が出たことを認めたので、翌年の1949年には、3万5千人という人々がサッターの土地に押し寄せた。
最初にやってきたのは誰かというと、南米の人達だった。
距離が近いこともあるが、ブラジルには17-18世紀にゴールドラッシュがあり、世界の6割もの金を産出していた。その金が枯れたところだったのだ。そんな時に金が出たというニュースを聞いて、「次はカリフォルニアだ!」と思って駆け付けたのだ。
もちろん、合衆国中からも、人がやってきた。記録によると、ニューヨークから出港した船だけでほぼ8百隻。
サンフランシスコに到着した船の中には、船員の多くが金堀りに行って、人手がなくて帰れなくなり、乗り捨てられてしまった船がたくさんあったという。だから湾には放棄された船であふれているという異常な光景が見られた。(写真は近況ノートに掲載)
金を目指した人々はたいていサンフランシスコに入港したので、この町の人口は膨れ上がり、1900年には、町の人口は30万人を超えた。
さて話を戻そう。
人が押し寄せてきて、サッターにとっては恐れていた悪夢が始まったのだった。何万人という人々が勝手に自分の土地にはいってきたのだ。彼の牧場は荒らされ、息子は殺され、サッターはすべてを失った。
サッターは合衆国を相手にして裁判に訴えたが、ほとんど何も賠償されないまま、死んでいった。彼は自分の土地から金が見つかったばかりに、すべてを失ってしまったのだった。
なぜ、彼が合衆国から賠償金がもらえなかったのか。それについては、タイムラインが微妙なのである。
合衆国がサンフランシスコに星条旗を掲げたのが、1846年、7月。しかし、これはアメリカが勝手に宣言しただけで、正式には、カリフォルニアはメキシコ領だった。
そして、サターの使用人によって金が見つかったのが、1848年1月24日。
アメリカがメキシコとの戦争で勝ち、正式にカリフォルニアが合衆国のものになったのが、1848年2月2日。
つまり、金はメキシコ領地時代に、アメリカ人のマーシャルにより発見されたのだ。
それが、8日後の2月の2日には、土地も金もすべてアメリカのものになったのだから、メキシコ国籍だったサターの土地の権利は消えた、ということになる。また土地を荒らしたのも、彼の家族を殺したのも南米の人達で、合衆国人だという証拠はないのだ。
もし金の発見が20日ほど遅かったら、またサッター自身が金を見つけていたら、サッターがメキシコ国籍を取得していなかったら、話は違っていたかもしれない。
またメキシコがもし、金の存在を知っていたら、あんなに簡単にカリフォルニアを手放したりはしなかったに違いない。
さて、サッターという人はどういう性格だったのだろうか。
彼はまさにチャンスの山の上に座っていながら、チャンスを逸してしまったのである。
砂金が見つかったのだから、その時に総力をあげて金を集め、隠しておくとか、持って逃げるとか、そういうことは考えなかったのだろうか。
人が押し寄せることを予想して、ビジネスを思いつかなかったのだろうか。
彼は一攫千金など夢見ない人、こつこつと地道に進む真面目な人だったのだろう。
それから、もしサッターにもっと手腕弁護士がついていたら、別の論法で権利を主張できたかもしれないのにとも思う。
ところで、実際に金を発見したアメリカ人のマーシャルについてだけれど、彼が金で金持ちになったという話はない。彼は文字も読めなかったし、権利を主張する権利があるなんて、考えてもみなかったようだ。後に、アラスカで喧嘩に巻き込まれて殺されたと聞いている。
サッター、ブラナン、モンゴメリー、この3人の名前は、サンフランシスコのストリートに、その名前が残っている。
モンゴメリーは金融街を南北に走る重要な通りだが、それほど、長くはない。ブレナン・ストリートは南にあり、今では目立たない。
町の中心を東西に走っているのがサッターで、日本人街の横も通る。近郊からのバート(電車)が止まるのがモンゴメリーなので、その知名度と重要性は譲るとしても、交通量はサッター・ストリートが一番だということは、なにか慰められる気がする。
ところで、その土地に1万年も前から住んでいたインデアンがなぜ金に気がつかなかったのかと思う人がいるかもしれないが、彼らは光る砂には気がついてはいたようだ。ただ価値も知らなかったし、興味もなかった。彼らにとっては、貝や鳥の羽根、毛皮のほうが重要だったということのようだ。
また湾に残された幽霊船がどうなったかというと、サンフランシスコの土地が狭くなり、湾が埋め立てられた時に、一緒に埋め立てられた。その場所は、今のダウンタウンの中心のところだから、サンフランシスコは幽霊船の上にできていると言われている。実際、どんな地震に耐えられるというあの有名な三角形のピラミッドビルを建てた時、地下からいくつもの船の残骸が発見されたのだった。
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