スートロ 成功まで30年


 前回はスートロがパナマから母親に出した手紙を紹介しました。その時彼はまだ20歳。

 後に、彼はある事業で大成功するのですが、それまでには、30年近くの時間がかかりました。また64歳の時にはサンフランシスコ市長にまでなりました。

 今日は成功までの道のりの話です。


            

                *


 アドルフ・スートロ(1830-1898)はプロイセン(ドイツ)出身。生まれた町はアーヘンといい、温泉で有名な所だった。

 両親はユダヤ人で、彼は11人兄弟の次男だった。

 父親は織物工場を経営していて、その写真を見ると、石造りでなかなか立派な建物である。しかし、彼が16歳の時に父親が急死したので、学校をやめてその工場で働くことになった。だから機械に関しては知識と興味があり、それが後で役にたったと言える。


 その頃、ヨーロッパではいたるところで革命が起きていて、時の波はドイツ統一に向かって動いていた。

 スートロの母親はユダヤ人が迫害されることを懸念して、親戚のいるアメリカへ移住することを決意する。彼女は夫の残した工場や家などを始末したので、ある程度の現金をもって渡米した。


 一家はニューヨークの親戚のところに着いたのだが、アドルフは休む間もなく、ひとりでゴールドラッシュに湧くカリフォルニアに行くことを決心する。

 その時、母親がー反対したのかどうか、それはわからないけれど、たぶんちゃんと手紙を書くことなどを約束させて、その資金を渡してくれたものと思われる。

しかし、なんといっても、アドルフはまだ20歳。言葉だってドイツ語しかわからなかったはずなのだ。


 彼はニューヨークからカリブ海側のパナマに着き、パナマ越えをして太平洋側に渡り、そこから船でサンフランシスコにやって来た。

サンフランシスコではタバコやドライ・フルーツの店を開いた。リア・ハリス(1832-1893)というアイルランド出身のユダヤ人と結婚して、子供が6人生まれ、生活は楽ではなかった。そして、10年の歳月が流れた。

 

 サンフランシスコは「金で生まれ、銀で大きくなった」と言われるが、その頃は金はもう枯渇したのだが、それに代わって銀が発見されたのだ。

 ただし銀鉱では採掘の最中に水が出るという事故が連発したのだった。スートロは

そこにトンネルを作って、水やガスを排出させてはどうかというアイデアを考えついたのだった。彼は父親の工場で得た知識をもとに、独学でその方法を考えた。


 当時の人々は彼のことを「誇大妄想」とか「夢見る男」だと言い、トンネルの話に耳を貸してくれる人はいなかった。彼は資金調達のために、首都ワシントンに出かけたり、イギリスに行ったりして、資金集めに奔走し、ようやく工事が始められた時は40歳、完成した時には50歳に手が届こうとしていた。

 トンネルのアイデアは30歳の時に思いついたのだが、実現するまでには20年近くかかったことになる。

 スートロは諦めずに頑張ったが、その間、家族はずっと貧乏暮らしを続けていた。妻のリアが一度も文句を言ったり、責めたりすることなく、支え続けてくれたと、後にスートロは感謝の言葉を述べている。

 

 スートロトンネルを作るとそれは大成功で、銀がたくさん掘り出された。

 その銀鉱を売ったので、彼には莫大なお金がはいり、サンフランシスコの西側を全部、つまり、サンフランシスコの12分の1の土地を買い占めた。


 このあたりはサンフランシスコでは一番寒い場所で、住む人といったら霧と風に慣れているアイルランド系の人々だったが、ドイツの寒い所で育ったスートロは、この気候が気にいったのだろう。


 スートロはあのビッグ・フォーがノブヒルに屋敷を建てた頃、彼は太平洋の見える丘、スートロ・ハイツに邸宅を建てた。

 彼はそれだけではなく、向かいの岸壁に、お城のような「クリフハウス」を建て、レストラン、劇場、美術館、ダンスホール、図書館、スートロバス(大浴場プール)を作った。町中からスートロバスまで鉄道(スートロ鉄道)を敷き、安い値段で切符を販売し、一般の人々も来られるようにしたのだった。


 彼は金儲け主義のビッグ・フォーを「レッド・オクタプス(赤ダコ)」と呼んで嫌っていた。彼らが共和党(共和党のシンボルカラーが赤)で、タコが八方に手足を広げるように、いろんなところに事業を拡げていったからだろう。


 その大きな浴室「スートロバス」の跡は今でも残っていて、その大きさには驚かされる。なにせ、当時は温水プールが7つもあり、更衣室も500、貸し出し用のタオルや水着の洗濯場もあったというのだ。当時の人々が滑り台から飛び込んだりして遊んでいるフイルムが残っている。汽車が海沿いに走っていく様子もユーチューブで見られるから、本当にそんなことがあったのだと感心するばかりだ。

 


              

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オーシャンビーチは私の好きな場所。ジュダのところでもオーシャンビーチについて書いたが、オーシャンビーチは広い。クリフハウスがあるこちらのオーシャンビーチはより金門橋に近いところにあり、ジュダの海はもっと先です。

 

サンフランシスコの町中から見える海は「湾」の内海。

でも、オーシャンビーチから見える海は、広い太平洋です。


 私はオーシャンビーチに座って海を見るのが好きです。白い波が幾重にも重なり、崩れる。海は見ていて、飽きることがありません。


 海に向かって右手の岩の上には「クリフハウス」が見えます。スートロが建てた「クリフハウス」はもうありませんが、今はモダンなレストランとギフトショップがあります。パンデミックの頃に閉店されたというニュースがありましたが、またオープンしたようです。


 スートロが建てたのは、岩からはみ出るほど大きなヨーロッパの城のような大きな建物でした(近況ノートに写真があります)

 そこには、アメリカ大統領とか、イギリス人作家のオスカー・ワイルドなども訪れました。

 その背後にはスートロバスの跡があります。

 通りを越えると、スートロ一家が住んでいた丘、スートロ・ハイツ。ここには、屋敷と広大な庭があり、世界各国から集められた植物が植えられ、何百という彫刻が置かれていたということです。

 スートロが死後、長女のエマ(カリフォルニア初の女医)が邸宅も事業も続けましたが、彼女が亡くなった後、スートロ関係の建物や銅像などが「安全性に問題あり」という理由で、あっという間に取り壊されました。

 彼がユダヤ人で、人民党(当時は共和党と人民党の時代で、民主党はまだなかった)だったということと関係があるのかもしれません。


 ところで、次の回では、奥さんのリア・ハリスについて少しだけ取り上げます。

 内助の功の妻でしたが、ふたりは1879年、彼が49歳の時に離婚しました。

 

 

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