ニューヨークからサンフランシスコまでの道 20歳の青年の手紙
ゴールドラッシュの時、東部に住んでいた人々はどのようにしてサンフランシスコまでやって来たのだと思いますか。
近況ノートに地図を載せてみましたが、 ひとつは南アメリカの南端をぐるりと回る方法。これには費用と時間がかかります。
もうひとつは陸を行く方法。
鉄道がない時代なので時間がかかるし、強盗やインデアンにに襲われる危険性がある上、シェラネバタ山脈を越えるのが非常に困難。冬に遭難事故に遭った悲惨な話が残っています。
三つ目が、まず船でパナマ共和国の東側まで行きます。
パナマは南北アメリカの真ん中にあり、細い紐みたいな場所。今では全長が80キロパナマ運河が通っているが、当時はもちろんありません。
ですから、東側から歩いたりボートに乗ったりして西側にたどり着き、そこでサンフランシスコ行きの船に乗るという方法で、これが一般的でした。
その様子がよくわかる手紙が残っていますので、ここに紹介します。
*
パナマ越えの様子を手紙に書いた20歳の青年の手紙が残っている。
その青年は後に事業で大成功した人で、サンフランシスコでは名前を知らない人はいない。
彼はスートロという人物で、サンフランシスコには、スートロタワー、スートロハイツ、スートロバス、スートロフォーレストなど彼の名前のついたものがたくさん残っている。
スートロのことはあとで述べるとして、まずは手紙を紹介してみよう。
彼は書き溜めておいて、パナマの東側に辿りついた時にまとめて家族に送った。
これらの手紙は、1850年の10月30日の日付けである。
「ニューヨークを出港したのは10月12日の午後です。
午後の太陽が美しい家々や庭を照らし、船がハドソン川の要塞が見えた時、なんだか故郷(彼はプロイセン、ドイツの出身)のことを思いだしました。
船が南下するにつれてだんだんと暑くなり、フロリダに着いたのは15日でした。海の上を飛ぶトビウオの群れを見て興奮しました。それから、コロンバスが『サン・サルバドル』と名づけた島を見ました。
星座は刻々と変わり、それから、いろいろな島が見えてきて、ついにパナマのチャグレスという所に着いたのが20日です。
つまりニューヨークからパナマまで8日かかったということになります。
この航海は鏡の上を走るようにスムーズで、船酔いする人は誰もいませんでした。だから、ここまでは大成功と言えます。
次は、陸を横断して、太平洋側のパナマ・シティまで行き、そこから船でサンフランシスコに行くというわけです。
さて、チャグレスに着いた翌朝、ぼく達は船と別れ、小さなボートに乗り換えて、ようやく上陸しました。
熱帯の木々、岩、要塞、たくさんのカラフルな色の鳥達、すごくロマンチックで、おもしろそうな所でした。
島の半分には地元の住民が住んでいる貧しい竹の小屋があり、あとの半分はそれよりはましな小屋で、大きな文字で、ワシントンホテルとか、アスターホテルなんて書いてありました。
でも、これがホテルかって言いたいくらいでした。
だって、豚や鶏が人の間を走り回っているんだから。それに食べ物ときたら、フルーツだけでした。
チャグレスの人口は1500人くらいでしょうか。
褐色と黒が混じったような肌の色をしています。彼らは怠け者で、働いているようには見えません。
それから、彼らは大のタバコ好きです。
特に女性は。ほとんどの女性は口に葉巻を加えていて、耳の後ろにペンみたいにはさんでいます。
着るものといったら、腰に布を巻いているけど、全く何もつけていない人もいます。でも、裸が恥ずかしいとか、そういうふうな様子はありません。
女性の中にはきれいな色の布をつけていて、髪は真っ黒。それに真珠と金で飾っている人もいます。
チャグレスの気候は健康に悪いです。
ぼくは高熱病のせいで、青白い顔をした白人を何人も見ました。高熱病にかかると、3、4年くらいしかもたないということです。なんといっても、一番身体によくないのが、濃霧と、湿度の高さとマラリアです。
蚊は毎晩、地面から湧き上がるように現れます。一晩で、一生を棒にふったりすることになるから、気をつけなくてはなりません。
こんな状態で、4晩も過ごしました。ぼく達が病気にかからないでいられるのは、船医にもらったキニーネ(薬)のおかげです。
いよいよ西に向かう方法が見つかりました。船で知り合った3人とぼくをいれた4人で、100ドルでカヌー漕ぎを雇い、クルーズという所まで行くことになりました。問題は、彼がスペイン語しか話さないということですが、まあ、どうにかなるでしょう。
ぼく達は荷物をカヌーに積んで、午後の1時に出発ということになりました。川の流れは速くて、いたるところ、渦が巻いているから、かなり危険な旅になりそうです。
ココナッツの木、バナナ、椰子、オレンジ、イチジク、マンゴー、グアバ、サボテン、熱帯の植物はもういろいろな種類があり、驚きです。ものすごく大きいのもあります。
緑の太い竹、サトウキビ、軒の高さくらいまである草、サボテン、高さは人の背くらいあり、幅が1メートル以上もあるような葉っぱ。ツタなんかは木の上まで伸びたかと思うとそれが下に伸びて、それが幾重にもからまっているものだから、息ができなくて死んでしまう草木もあります。
それから、ものすごい数のオウムがいます。ペリカンとか、野生のアヒル。こっちはいつもペアです。何百匹というハミングバード、ワシ、ハゲタカも見ました。草むらには、ヤモリ、カメレオン、イグアナ、それから大きくて色がきれいな蝶。川の中には、あの恐ろしい人食いワニがいるのです。
川は突然、急流になる場所がたくさんありました。ぼく達は13キロくらい進んで、夜の7時までにはカタンという村に着きました。今のところは順調にいっていて、元気です。船で出た食物を取っておいたから、それはクラッカーなんだけど、それを夕食に食べました。
この村の地面は泥で、眠る場所がありません。ハンモックが少しあるけれど、それは婦人用です。それに何百という人々が到着してくるから、地面に直接寝るか、カヌーで寝るしかありません。ぼくは荷物を見張るために、カヌーで寝ることにしました。
その村には、ギャンブルのテーブルがいくつもあって、そこでカヌー漕ぎ達がかけをして遊びます。これが本職といってもいいくらいです。かなり稼ぐけど、結局は負けて、全部すってしまうという具合です。
夜中には蚊の攻撃やら、大雨やらで、大変だったけど、どうにか夜が明け、また出発です。
両岸は昨日みたいな深い森、川の中に木が伸びてきていたりしています。お昼になって食事が出されたけど、それはハエ、虫、アリがたかっていて、とても食べられたものじゃありません。
次の村に到着する前に、ものすごい雨になりました。その村にはふたつの小屋があったけれど、60人もの人が着いたから場所がなくて、ぼくはまたカヌーで寝ることにしました。食べられるものはグアバの干したものだけ。
蛍の大群が現れ、蚊がいっぱいでした。
次の日、もう少しで、カヌーがひっくり返りそうにはなりました。4人のフランス人がカヌーから落っこちたけれど、助かりました。先週は、14人のアメリカ人が溺れ死んだという話を聞きました。
途中で、カリフォルニアから戻ってくる人々が川を下っていくのを見ました。みんな、ワイルドな目をしていました。
今日は、かなりの距離を進めました。
24日、午後3時、ゴルゴナという村に着き、ようやくあたたかいものを食べました。
また問題が起きました。カヌー漕ぎがここからパナマ市までは泥で、カヌーでは進むことができないと言うのです。ぼく達は彼に、11キロ向うのクルーセスという所まで連れていってほしいと懇願しました。ここが一番の難所なのです。余分に払うということで彼のオッケーが出て、ほっとしました。
特にこのあたりは暗闇では危険で、彼がカヌーを漕ぐのが上手で、よかったです。
ぼく達はこのクルーセスというのがちゃんとした町で、眠る場所があると思っていたんだけど、着いてがっかりしました。
「合衆国ホテル」という名前のホテルがあるんだけど、すでに300人もの人が泊まっていました。そして、食べ物ときたら、コーヒーとパンと腐った肉で、1ドルもします。
だけど、4日半も川で過ごした後だから、屋根があるだけでぼくはうれしかったです。
大きな寝室には150の小さなベッドが置かれていて、みんな重なって寝ます。もちろん、シーツとか枕というものはありません。でも、ぼくはぐっすりと眠りました。
次の朝、10月25日、パナマ市に行く方法を見つけました。
交渉の末、ぼくは4頭の駄馬を借りました。1頭はぼくが乗るため、残りには荷物を積みこみました。
クルーセスからパナマ市への道のりを書くのは難しいです。それは厳しい道で、一歩進むごとに、駄馬から投げ出されそうになりました。いろんな渓谷や、アルプスを経験した人ですら、こんな険しい道は初めてだと言っています。
出発してすぐ、駄馬が泥の中に埋まってしまいました。腹までね。
二度と泥から出られないだろうと諦めたくらいだけど、どうにか、引き出せました。
道は行き止まりになったり、時には狭くて、ロバが通れないこともありました。ぼく達は、もう、全身泥だらけでした。
それだけじゃありません。ここには、恐ろしい強盗がいるということです。先日、若い男が殺されて、9000ドルも盗られたということを聞きました。
でも、夜までにはどうにか村に着き、小屋で休むことになりました。でも、この夜のショックは、一生忘れないと思います。
これまで一緒に旅してきた仲間が、暗闇の中、ぼくを置き去りにしたのです。他によい話があったのか、ぼくが重荷なのか、何があったのかはわかりません。
残されたのは、ぼくとスペイン語しか話さない駄馬使いの男です。
これからは、自分ひとりで身を守らなければならなくなりました。拳銃はもっているけれど、正直、恐ろしいと思いました。
近くの屋根なし小屋に、カリフォルニアから戻ってきたという150人くらいの男達がいました。誰も、無法者のようでした。
ぼくは一日中何も食べていなくて、腹ペコでした。そしたら、ある男が一切れのパンを売ってくれるというのですが、1ドルでした。
一日中雨でずぶ濡れ、といって、乾いた着替えはありません。
とにかく眠ろうかと横にはなったけれど、ごろつきみたいな連中がそばにいるから、一睡もできませんでした。
次の朝も食べ物はありません。
夜の間に、ぼくが乗っていた駄馬が盗まれてしまいました。これでは、歩いていくほかありません。11キロくらい歩いた頃でしょうか、ぼくは疲れ切ってしまって、もう1歩も進めなくなりました。ものすごい暑さなんです。
そしたら、見かねた駄馬使いが、数ドルでぼくをラバに乗せてくれると言いました。そして午前9時、ようやく、太平洋が目にはいりました。パナマ市に着いたのです。
アメリカンホテルは1日2ドルでした。
ぼくは鏡に映った自分の姿を見て、ぎょっとしました。そこにいたぼくは、大きな麦藁帽をかぶり、ピストルをベルトにはさみ、顔中泥だらけで、髪はくちやくちゃのどろどろ。お母さんが見たら、なんと言うでしょうか。
風呂にはいって乾いた服を着たら、まるで生まれ変わった気がしました。
このパナマの古い町は荒廃していました。
ぼくはパンとお茶以外は口にはしてはいません。肉は臭うから腐っていると思うから。ぼくの部屋には6つのベッドがあります。他の部屋なんて、50くらいのベッドがあり、みんな折り重なって寝ています。
みんなには信じられないと思うけど、パナマ市にはトイレがありません。だから、用を足したい人は、市の城壁のところへ行きます。夜には、そんな所へ行きたくないけれど。
地元の住民はみんなカトリックで、たくさんの神父がいて、教会もあります。兵隊は、これが兵隊なのかと思うほどひどいです。プロイセンの兵隊とは比べようがないです。黒人、白人、混血人、いろんな人がいるけれど、誰も靴をはいていません。
ぼくはもうたくさんの人と話をしたから、カリフォルニアのことかなりわかりました。たくさんの人が誰なのかというと、結局あそこで失敗して、腹ペコで、惨めに東部に戻っていく人達なのですけれど。
金鉱はやはりものすごい規模で、10万人くらいの人が金堀りをしているということです。でも、100人のうち金持ちになれるのは5人で、まあまあの生活をおくれるのは50人くらい。残りは食べるのもやっとでかろうじて生きているか、餓死してしまうのだそうです。
そういう人間は髪も髭も伸びたままで、ぼろを着て、泥棒になる、また、お金を稼いだ者でも、多くはギャンブルハウスにいりびたって、金を使ってしまう、そんな具合です。
商人達はものが足りなくなると、多くものを注文しすぎて、結局残りが出る。安全にビジネスをするというのは難しい。そういうことがわかりました。
でも、正確に予測をし、ちゃんとした判断をすれば、お金は儲かるとぼくは見ています。
明日、船に乗れたらいいなと思います」
*
この手紙を書いたスートロは作家ではないが、この(サンフランシスコの大学に残っている)手紙を読んだ時にはすごく感動したし、経験した人でなければ書けない文章だとつくづくと思った。
アドルフ・スートロ(1830-1898)は、年齢的には リーランド・スタンフォードよりも6歳若く、あの「ビッグ・フォー」に立ち向かった人でもある。
そのスートロの話は次回に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます