サンフランシスコ奇跡の夜、ルイサは歌う

  

  前回は「ロタの噴水」について書きましたが、もしこの噴水に口があるとしたら、彼はこう言うと思います。

「私にとって、栄光の日は、1910年のクリスマス・イブです」と。

 

 その夜、この噴水の回りには、なんと25万の人々が集まったのでした。人口が40万人の時だから、市の半分以上の人がここに集まったということになります。

 東京ドームの収容人数が5.5万人で、その4.5倍ということになりますから、すごい数ですよね。

 その様子がちゃんと写真に残っているのだから、話に尾ひれがついて大きくなったということではなく、事実だとわかり、驚かされます。その写真は近況ノートにアップします。

 

 歴史の中で、何かがきっかけで、国民や市民の気持ちがひとつに高まることがありますが、サンフランシスコの場合は、その夜がそれでした。

 その中心にいたのはひとりのガッツのある女性でした。


               *  

       

 

 サンフランシスコ市民を熱狂させた女性はルイサ・テシラズィニ(1871-1941)といい、イタリア人のオペラ歌手だった。サンフランシスコのマーケット通りのロタの噴水に、25万人もの人々が彼女の歌を聴きにきたのだった。

 サンフランシスコの12月の夜は寒いのに、なぜ劇場ではなく、そこで歌ったのだろうか。それには、ちゃんとした理由があった。



 ルイサはフィレンツェの生まれである。姉から歌を学び、3歳の頃にはもう歌い始めていたという。

チャンスが訪れたのは19歳の時だった。

 劇場にオペラを聴きに行ったところ、ソプラノ歌手が急病になり、歌えなくなった。

 その時、ルイサが「私は全部、歌えます。やらせてください」と名乗りでたのだった。劇場がやらせてみると、すばらしい出来で、大喝采を浴びたと伝えられている。オペラ歌手になったルイサはロシア、スペイン、南米などを巡業、米国にやってきたのだった。


 ルイサはコロラトゥーラというのを得意としていた。

 それは声をころころさせながら高い旋律を歌うテクニック。ルイサはこの高い部分を歌っても、声がぶれたりせず、自由にあやをつけて歌えたそうだ。

 

 私はテレビで、日本のソプラノ歌手森麻季さんのコロラトゥーラを聴いたことがあったが、それはとても美しかった。だから、ルイサもきっとああいうふうに歌ったのだろう。


 ルイサはニューヨークでメトロポリタン劇場と契約したのだが、劇場側はルイサが専属契約をしてくれたと思いこみ、よく契約書をチェックしなかった。

 しかし、ルイサとしてはメトロポリタンだけで歌うと契約したつもりはなく、マンハッタンオペラでも歌おうとしたので、裁判ざたになってしまった。

 一応解決したと思ったのに、また揉めて、裁判所から、ことが落着するまで「劇場で歌うのを一切禁止」という命令が出たのだった。


 その頃、サンフランシスコにはルイサのコロラトゥーラをぜひ聴きたいという人々がたくさんいた。彼女はサンフランシスコの劇場で歌うことになっていたのだが、裁判のことがあり、公演は延期されていた。


「はたして、ルイサはサンフランシスコに来るのだろうか」

「裁判所から禁止命令」

「公演危うし」

 などという新聞が連日書きたて、人々の関心はますます高まっていった。


 今でもそうだが、ある時、何かのきっかけで「話題(の人)」が生まれると、嵐が嵐を呼んで、違うレベルまで高まってしまうことがあるが、まさに、この時もそう。


 人々の声を代表して、ある新聞記者がルイサを訪ねていき、ずばり質問した。

「サンフランシスコでは、歌ってくださるのでしょうか」


 ルイサはこう答えた。

「私はサンフランシスコで必ず歌います。それがどうしてもだめだというのなら、私は劇場ではなく、ストリートで歌うでしょう。サンフランシスコの通りは自由なはずですから」と。

 

 ああ、ルイサはなんて機転がきくのだろう。

 裁判所は「劇場」で歌うのは禁止しているが、「ストリート」で歌うのは禁止してはいないのだ。

 この答えに、サンフランシスコの人々は手を叩いた。


 そして、ついにルイサがやってきたのだ。その時、彼女は39歳。

 きらきらと輝く白いドレスを着て、ロタの噴水に登り、歌ったのだ。

 夜の静寂にルイサのコロラトゥーラは美しく、力づよく響き、人々はその声に熱狂した。

 サンフランシスコ、クリスマス・イブの奇跡である。

 その写真が残っているが、すごい数である。人々はみんな、正装している。


 その後のルイサの人生について少し述べてみよう。

 彼女は明るくて、おもしろいことが大好きで、面倒見がよかったから、その回りには、いつも若い男性が集まってきた。そのためには、彼女はピークを過ぎた年齢でも、働き続けなければならなかった。


「私は若くはないし、太っていて、かわいくもない。でもね、私はフィレンツェのティトラズイニ(彼女の苗字)よ」といつも言っていたという。

 

 ルイサはフィレンツェ出身のティトラズイニ家であることを誇りにしていた。

 フィレンツェといえばメディチ家。フィレンツェは共和国で王政ではなかったけれど、メディチは王みたいなものだった。このルネッサンスを開花させるもとになった王は、普通の王とは違っていた。

 かつてロレンツォ・メデチは言った。「人はパンだけで生きるものではない。町にサーカスを」

 彼は楽しいことが好きな人だった。

 彼はこうも言っている。

「青春というものは美しい。けれど、あっという間に過ぎていく。楽しく生きたいと思う者は、今日を楽みなさい。明日はどうなるか、わからないのだから」

 だから、フィレンツェ出身のルイサも、楽しいことが好きで、議論好きで、気前がよかったのかもしれない。


 人々から愛されたルイサだったが、伴侶にはあまり恵まれなかったようで、3度の結婚をし、2度、離婚をした。

 3人の夫がルイサのお金を遣い果たしたと言われ、70歳で亡くなった時には、ルイサは無一文だったという。


 しかし、それで不幸だったかというと、そういうことではないはずである。恋もせず、お金だけをたんまり残す人生なんか、「フィレンツェのルイサ・ティトラズイニ」の生き方ではない。

 ルイサが最期に思ったのは、かつてブラジルまで駆け落ちした男のことだろうか。それとも、あの「サンフランシスコのイブ」のことだろうか。

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