天才子役ロタが、サンフランシスコに贈った噴水
昨日は「コイトタワー」について書いたので、今日はもうひとつの有名なモニュメントの話をしたいと思います。
この「ロタの噴水」と呼ばれるモニュメントは、ロタというゴールドラッシュ時代に大人気だった子役が、後にサンフランシスコ市に贈ったものです。
ロタは踊りが得意だったようです。その踊りを誰から習ったのか、それがこの回の注目点です。
*
1906年のサンフランシスコの大地震と火事で、市の大半が消滅してしまった。その中で、ダウンタウンにありながら残ったもののひとつに「ロタの噴水」がある。
サンフランシスコを訪れた方は目にしているはずだけれど、あまり大きくはないので気がつかなかったかもしれない。
それはパレス・ホテルの向かい、マーケットとカーリー通りの角にちゃんと残っている。ピラミッド型をした金色の記念碑で、何も知らない人は交通の邪魔になるのに、なぜこのようなものがここにあるのだろうと不思議に思うことだろう。
「ロタの噴水」というのは、人気子役だったロタ・クラブツリー(1847-1924)が寄贈したもので、作られた当時は人と馬の「水飲み場」だった。また当時は、金色ではなかった。
クラブツリーを訳せば「蟹の木」という変わった姓だが、ロタは当時、アメリカの芸人としては一番人気があり、出演料も一番高かったそうだ。
ロタの両親は、イギリスから移民してきてニューヨークに住み、本屋を経営していた。父親のジョンは悪い男ではないのだが、夢見がちなタイプで、ある時、カリフォルニアに行って大金持ちになるんだと妻子を残して出かけてしまった。
以来、便りもほとんどないので、1年後に、母親のメリーアンは店をたたみ、5歳の娘ロタを連れて、夫のもとに行くことにしたのだった。
蒸気船の長い旅の末、ようやくサンフランシスコに着いたというのに、ジョンは港に迎えにさえ来てくれなかった。
しばらくして、ジョンがグラスバレーという町にいることがわかった。彼のほうから連絡があった。
グラスバレーは炭鉱の町だが、ジョンはここが文化の中心になるはずだと信じていた。そこで下宿屋を開けば、大金持ちになれると思ったのだった。
ジョンはアイデアは湧く男なのだけれど、たいていは見当違い。それに、身体を使って働くことはしないタイプなのだった。彼は下宿屋を経営するには人手がいるし、他人を雇えば高いということで、サンフランシスコにいる妻子を呼ぶことにしたのだった。
グラスバレーには飲み屋やギャンブル場はあっても、子供は少なく、もちろん遊び場もない。ひとりで遊びに出かけたロタはある日、ある家の庭にもぐりこんでいった時、そこで美しい女性と出会った。その女性はロタのことをとても気に入り、ロタに歌や踊りを教えたのだった。
この踊りがロタの人生を変えていくことになる。
踊りを教えた彼女の名前はローラ・モンテス。
このローラ・モンテスという女性は元ダンサーなのだが、ただのダンサーではなかった。
ローラ・モンテスは19世紀の「もっとも有名な娼婦」と言われた女性だ。
彼女は、ヨーロッパで、リスト、デュマ、ユーゴーなどと浮名を流したスキャンダルの女王だった。
中でも、一番有名なのがバイエルンの国王ルードウィッヒ一世(ノイシュバンシュタイン城のルードウィッヒ二世の祖父)との大恋愛である。
この国王ルードウィッヒ一世は大の芸術愛好家だった。
一世は絵や音楽だけではなく、美女も大好きで、今でも、ミュンヘン郊外にあるニンフェンブルグ城には、彼が愛した36人の美女の肖像画が残っている。
中でも国王が一番愛したのがこのローラ・モンテスだった。
国王は彼女の踊りに魅かれたのだが、だんだんと彼女に溺れ、屋敷や過大な援助を与えただけではなく、彼女は内政にも関与させたから、国民が怒り、ついには泣く泣くローラを国外追放させなければならなくなった。
このスキャンダルでルードウィッヒ一世は退位、息子のマクシミリアン二世が跡を継いだ。マクシミリアンは国王よりも教授になりたかったという人物だった。そのマクシミリアンが急死したことから、かの有名なノイシュバンシュタインを建てたルードウィッヒ二世が、わずか19歳で、国王になったのだった。(こういう状態で急遽国王になったわけで、二世には、まだ国王になる準備ができていなかったのですよね)
ルードウィッヒ二世は国の財政を危うくするほどワーグナーに膨大なお金をつぎ込んだり、城の建築に熱情を注いだりするのだが、彼のああいう性格は突然に現れたのではなくて、その要素は祖父にも、父親にも見られるのである。
さて、ローラ・モンテス(1821-1861)の話である。
ローラは人々にスペイン人だと言っていたが、実はアイルランドの生まれで、育ったのはインドのカルカッタだった。
インドで陸軍大尉だった父親が死ぬと母親はすぐに再婚したので、ローラはパリの学校へ送られた。ローラはパリで、若い士官と駆け落ち事件などを起こした後、ダンスを勉強にスペインへ行った。
ダンサーになったローラは、踊りはさほどはうまくなかったらしいが、黒い長髪の美女が、黒いビロードの服に赤いバラをさして、妖艶に踊る姿が人気を呼び、ヨーロッパ中を巡業することになったのだった。
けれど、その挑発的なダンスは下品すぎるとも言われ、バイエルンを回っている時には、国立劇場では名前を外され、それに抗議したことがきっかけで、国王との付き合いが始まったということらしい。
国王はローラに夢中になりすぎて、国民のひんしゅくを買い、退位させられ、ローラもバイエルンを追われた。
その後、ローラはイギリスに行った。恋多き、燃えやすい彼女は、そこでは20歳も年下の資産家と恋に落ちたのだが、ある時大喧嘩をして、相手を刃物で刺してしまうという事件があった。なんとも熱い血のローラなのである。
その後、アメリカに渡ってきて、グラスバレーに住んでいたのだった。
話は戻って、ロタの父親のジョンは、グラスバレーの下宿屋の仕事は妻にまかせて、またいなくなった。
ある日、しばらくぶりに戻ってきたのだが、彼は燃えていた。
「グラスバレーはもう古い。これからは、ラビットバレーだ」
と宣言したのだった。
これまで、世界文化の中心はグラスバレーだと言っていたジョンなのに、今度は、ラビットバレーだと熱っぽく語るのだった。
「ラビットバレーは、カリフォルニアで一番大きな町になるぞ」と。
彼の予言は的外れで当たったことはなかったけれど、現在進行形の時には、そのことは見えない。それで、一家はラビットバレーに引越しすることになった。
そのラビットバレーに、マート・ティラーという若いイタリア人が住んでいた。彼は靴屋でもあり、ダンサー、歌手、バーのマネージャ、それから小さな劇場まがいの小屋をもっていて、ダンスなどを教えたりもしていた。
8歳になっていたロタがマートに踊ってみせた時、
「この子はすごいぞ。人気者になる」
と彼の直感の針はびびっと動いた。
ロタはマートの小屋で踊ることになったのだった。
同じ踊りを踊っても、魅せる何か、華といわれるものを持っている人がいるけれど、ロタは華のある少女だった。踊り出すと、人はその姿に惹き寄せられ、酒を飲む手を休めて、じっと見入ったそうだ。
ロタのダンスは、後に、ニューヨークタイムズに、「こんなにくねくねと魅惑的な踊りは、見たことがない」と書かれているから、どんなダンスなのか、ほぼ想像がつくというものである。
きっとセクシー系の踊りだったのだろう。なにせ、あの国王をも狂わせたローラ・モンテス仕込みななのだから。
それから、ロタの「笑い」も魅力的だったようだ。彼女が笑うと、観客も笑った。後に演技で舞台に立つようになってからも、観衆はその「笑い」を期待したという。 それは人々に、エネルギーを与えるような「笑い」だったのだろう。
メリーアンの夫はただ夢ばかり追っていたダメ男だが、娘のロタはしっかりとお金を稼いでくれた。それで、今度はメリーアンが夫の元から失踪することを決めた。それまではジョンに合わせて生きてきたけれど、もうやめた。女は一度決めたら、強いのだ。
キッチンのテーブルに、パンと煮豆、それに「ありがとう、さようなら」というメモを置き、ロタ、マート、バイオリニストを連れて、町を出たのだった。
そこから巡業の日々が始まった。
赤毛のロタは、まずネバタの鉱山に行って歌い踊った。これがまたまた大うけで、金塊やら、金貨がぼんぼんと投げられた。当時の鉱山は金はざくざく出ても、遊興場所もなくて、さびしい所だった。
そこにエネルギーのかたまりみたいな女の子が来て、踊って歌い笑うわけだから、もう大人気。母親のマリアンはステージママになった。ただこのママは紙のお札は信じない人。舞台に投げられた金や銀をかき集め、エプロンに入れた。そして、皮袋にいれて運んだ。重すぎて運べなくなったら、不動産を買ったというしっかり者なのだった。
ロタの踊りは評判を呼んで、ついにサンフランシスコでも公演するようになり、一1859年には、「サンフランシスコの人気者(San Francisco’s Favorite) 」と呼ばれた。
その後、ニューヨークに移り、そこでも大人気を得て、彼女の出演料は当時、最高額だったという。ロタは背が低くて童顔だったので、いつまでも、子役を演じられた。
ロタは生涯、結婚することはなかった。本人は母親が反対したからと言っているが、周囲に男性がいなかったわけではない。熱狂する男性は多く、その私生活は興味の的で、ニューヨークタイムズが「ロタの愛人特集」を組んだほどだった。
そのロタは45歳で芸能界を引退した。
もう子役を続けるのは飽きて、普通のおばさんになりたかったのだろうか。
母親が不動産でしっかりと溜め込んでいたので、お金はたくさんあった。ニュージャージーの高級地区に大邸宅を建てて住んだ。しかし、地区のクラブへの参加は許可されなかった。上流会の人々は、ダンサーなんか、仲間として認めるなんて、とんでもないことのようだった。
そんな時、ロタはにたりと笑い、当時としては短すぎるスカートをひらひらさせた。それから、彼女は人前でも、平気で葉巻を吸ったという。
当時は女性には参政権もなく、葉巻など吸ってはいけない時代だったのだけれど、平気だった。
ロタは母親が死ぬと、その家を売り払い、ボストンのホテルに住んだ。当時の金持ちは、年を取ると、高級ホテルに住むというのが定番だったのだ。
ロタが亡くなった時、「永遠の子役逝く」と新聞は書いた。
4ミリオンドルという多額の遺産は、動物愛護や、老いた俳優、その他の慈善事業に贈られた。
サンフランシスコのマーケットとカーニー通りの交差点にあるロタの噴水が、寄贈されたのは1875年である。
作られた当時は水飲み場だったが、今は水は出ていない。その時は、残っている部分の上に高い柱が乗っており、色も金ぴかではなかった。
「ロタの噴水」の近くには3つの新聞社や金融関係の会社があり、当時は近くで働く紳士達が集まる社交場所になっていた。
ロタは「サンフランシスコ、ありがとう。私がいたことを忘れないでね」という気持ちで、これを残したのだろう。もしこの噴水が残っていなかったら、後の人々はロタという女性が生きたことも知らなかっただろう。
世の常というものだろうが、人は忘れさられ、モノは残る。モノのおかげで、その人が生きていたことがわかるのである。大きなお墓を残そうとする人の気持ちがわかるというものである。
またロタの噴水は大地震の時にも崩れることなく、身内を捜す人々の連絡場所という重要な役目を担ったのだった。
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ロタの噴水、ローラ・モンテスの写真は近況ノートに載せておきますので、ご興味のある方はどうぞ見てください。
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