3人のハンティントンとアラベラ (4) アラベラが怖れていたこと

 では、3人のハンティントンに慕われたアラベラとは、どんな女性だったのだろうか。


 ウィキペディアを見ると、アラベラが十代の頃だと思われる肖像画が載っている。 気品のある瞳が美しく、ラファエルの描くマリアのように優しい。ハプスブルグ家の、あの美しいエリザベートが、髪に星の飾りをつけて描かれた肖像画があるが、その顔に少し似ている。アラベラはとても背が高く、170センチほどあった。

 それがコリス・ハンティントンと出会ったばかりの頃のアラベラだと思われる。


その美しい肖像画を見ると、なるほど、コリスやヘンリーが魅了されたというのも、わかる気がする。しかし、肝心のその絵だが、実は描かれた年代も、画家も、その絵がどこにあるのかさえ、わかっていないのである。もしかしたら、他人の肖像画なのかもしれない。老いてからのアラベラは、それほど美しいとは言えない。

 

 アラベラの魅力はルックスではなくて、そのかもしだす崇高な雰囲気だったのではないだろうか。ジャクリーン・ケネディのように。アラベラはジャクリーンのような上流階級の出身ではなかったけれど、努力して身につけたのかもしれないが、高貴さのようなものがあり、その立ち振る舞いには、威厳があったようである。また向上心があり、フランス語もフランス人のように読めて話せたというから、努力の人だったに違いない。

 

 アラベラ(1851-1924)はバージニアの生まれらしいのだが、アラバマの生まれだと本人は主張している。

父親は早くに亡くなり、母親がバージニアのリッチモンドで下宿を経営していた。リッチモンドは南軍の首都で、当時は活気があった。

アラベラの初めの結婚は、近くにあったとばく場の経営者のワーシャムという年の離れた男と結婚、19歳でアーチャーを産んだということになっている。ところで、とばく場といっても、ギャンブルと銀行を兼ねたようなパーラーで、当時、当地にはたくさんあったのだ。


 ふたりはニューヨークで結婚したのだが、息子が生まれると夫は間もなく死亡したので、アラベラは若くして未亡人になったということになっている。

 その後でコリスと知り合ったが、恋愛感情はなく、やがてコリスの妻が癌で長い闘病生活の後で死に、その9ヵ月後に、ふたりは結婚した、という筋書きになっている。


 ところが、コリスは財界の有名人。再婚相手のアラベラが30歳も年下で、子連れ美人、となると世間は放ってはおかないのだった。

 その焦点は、ハンティントンとアラベラが、10数年も前から関係があったのではないか。そして、アーチャーがコリスの子ではないのか、ということだった。


 有名人の不倫に私生児、マスコミが飛びつかないわけがない。

 特に、スキャンダルが大のご馳走だった時代、新聞記者はスクープを狙って嗅ぎまわるから、叩けば何かは出る埃のように、真実やら、ウソやらがどんどん書かれるのだった。

 最初の夫だったというワーシャムには実は妻子がいて、リッチモンドで1878年まで生きていたということが判明した。しかし、それ以上はわからなかった。


 ワーシャムが死んだ時の地方新聞に、彼がどんなに町のために尽くした人であること。貧しい状態で死んだことが書かれている。

 彼が貧しかったということは、ハンティントンとはつながりがなかったことを示していると思われる。カムフラージュ代として、金銭的な援助はなかったということだ。このことを新聞に、わざわざそのことを書いて残したい人がいたのだろう。

 

 私が考えるには、このワーシャムはアラベラの苦境を助けようとした親切な近所のおじさんではなかったのかと思う。当時は不倫や私生児は大問題で、罪に問われたから、そんなアラベラに手を差し伸べてくれたのではないかと思う。そういう善良な人がたまにいるものだ。


 ワ―シャムのフールネームは「ジョン・アーチャー・ワーシャム」である。アラベラが息子の名前に、自分のミドルネームからアーチャーとつけてくれただけで、うれしかった、そういう人のよいおじさんだったように思える。


 しかし、新聞記者はまだ諦めない。アーチャーがコリスの実子だという証拠を捜して根掘り葉掘り、探し回った。 

 コリスは以前から、ワシントンとの交渉のためによく東部に来ており、またバージニアには造船所を建てるために訪れていたので、アラベラに出会うチャンスはあったというのである。


 また、アーチャーが生まれた後、アラベラがコリスと結婚するまで住んでいたニューヨークの家は、その後、あの富豪ロックフェラーが買い、今では美術館に寄贈されたほどの豪邸だった。そんな家は、コリスの援助がなくては買えないではないか、などなど。

 しかし、その噂を証明する決定打が出ない。ただアラベラの母親名義で家を買う時の保証人の名前に、マーク・ホプキンズの名前が見つかった。ホプキンズはコリスの信頼すると仲間であり、会社の会計や事務を取り締まっている人である。

 ホプキンズが保証人になっているのはアラベラの母だけではないのであり、これだけでコリスとアラベラの関係を疑うのには無理だった。


 それに記者が見つけたのはそこまでで、アラベラの出生証明、一度目の結婚証明、アーチャーの出生証明書などは、どうしても見つからないのだった。なにやらそれらの証拠は、うまく、そして必死に、隠滅されているようなのである。どうも、陰で、ホプキンズが工作していたらしい。コリス側のほうが何枚も上手だった。


 アラベラが32歳の頃の肖像画がある。

 若い時の清純な姿と比べたら、ややたおやかな体型というか、ふっくらしましたね、という感想かな。

 右手に赤い扇子をひろげて持ち、赤黒いビロードのドレスを着ている。肌は白く、鼻は形がよく、目は大きいのだけれど、上から見下ろすように描いてあり、腕にも神経がいきわたっておらず、これがベストなポーズだとは思えない。もっと美しく描かれてよいのではないかという気がするし、本人も、美しく描いてもらおうという気迫に欠けているように思う。いったい、どんな状況で描かれたのだろうか。


これはパリで、アレキサンドル・カバネルに描いてもらった肖像画なのである。カバネルと言えば、「ビーナスの誕生」を描いた画家である。

 ヵパネルは19世紀、フランスアカデミーの巨匠で、そのビーナスの画はナポレオン三世のお買い上げになったことでも有名である。カバネルは当時、パリでは一番の人気画家で、肖像画を描いてもらいたい客が大勢いたのだ。


 興味深いのは、カバネルは肖像画を頼まれると、その詳細について詳しくメモしておいたというところである。

 しかし、このアラベラの絵に関してだけ詳細が省かれている。アラベラがメモは残さないように、頼んだのだろうか。

 

 その絵のタイトルは、「ミセス・ハンティントン」。

 コリスと結婚したのが、3年後の1884年だから、この時、アラベラはまだミセス・ハンティントンではなかったのだが。この記載が、すでにふたりが付き合っていた証拠になるかもしれないが、この絵の存在が知られたのは、アラベラが死んだ後である。


アラベラの死後、アーチャーはこの絵をサンフランシスコのリージョン・オブ・オーナー美術館に、「アーチャー・ハンティントンからの贈り物」として寄贈した。

 たくさんある美術館の中でサンフランシスコを選んだのは、ニューヨークのうるさい社交界から、はるか遠いところだったからだろうか。


 しかし、アーチャーが死んだ後、この絵は貸し出されて、最近まで、ニューヨーク市美術館にあった。

 ニューヨークでアラベラがハンティントンと結婚する前に住んでいた家は、ロックフェラーに売られたのだった。ロックフェラーはアラベラが手掛けた内装をとても気にいり、手をいれず、そのまま使っていた。

 後に、ロックフェラーはその寝室を市美術館に「ウォーシャム・ロックフェラー」の部屋として寄贈したのだった。

 しかし、「ワーシャム」と書かれているだけでは、それがアラベラのことだとは誰にもわからないので、美術館はそのことを知らせるために、サンフランシスコの美術館から、この「ミセス・ハンティントン」のカバネル作の肖像画を借りたのだろう。


 ところが数年前に、この寝室は二ューヨーク市美術館からバージニアの美術館に寄贈されたのだった。

 その時、このアラベラの肖像画がサンフランシスコに戻ってきて、リージョン・オブ・オナ―美術館に飾られた。ようやく戻ってきて展示されたのだけれど、なぜかすぐに取り外されてしまった。その理由はわからない。


 アラベラの晩年、73歳の時に描かれた肖像画がある。それは、サンマリノのハンティントン・ライブラリーで一般公開されている。絵の中のアラベラは老いてさらにふくよかになり、黒い服を着て、レースの黒い手袋をはめ、眼鏡の向うから。威圧感のある眼でにらんでいる。


 ヘンリーには、自分達が死んだ後、サンマリノの住宅と庭を美術館として残したいという希望があった。そこに飾るために、ふたりの肖像画がほしいと思ったのだった。肖像画を残すことについて、アラベラは当然、反対したのだった。

 けれど、どういう心境の変化があったのか、描いてもらってもよいということになった。選ばれた画家はイギリス人のオズワルド・ベイリー。彼はイギリス王室の肖像画を手がけ、「サー」の称号をもらった人物である。美術に詳しいアーチャーが、「ベイリーはスペインに行って、ベラスケスの絵を学んだ画家だから」と推薦したのだった。

 人一倍、秘密主義だったアラベラが、将来公開されることを知りながら、こういう肖像画を残したことが、私には不思議でならなかった。


 こんなエピソードが残っている。

 画家のベイリーは、最初はアラベラの表情をもっとおだやかに描いたのだった。ところが、その頃は目が悪くて、眼鏡をかけてもほとんど見えなかったアラベラだったが、虫眼鏡で点検した後、「こんなに皺がなくては、人から笑われてしまいますわ」と言って、描き直しを要請したのだった。もっとリアルに描いてくれるように注文した。


 たいていの女性だったら、皺は少なく、少しでも美人に描いてほしいところだと思うが、アラベラは違った。

 なぜなのだろうか。

 答えは、たぶん、これだと思う。その「人から笑われてしまいますわ」の「人」のというところに、「アーチャー」をいれればわかる。アラベラは肖像画を描くことに賛成したのは、息子に残したかったからなのだと思う。


 その頃、アラベラはニューヨークにいた。

 肖像画の仕事は始めってから、アラベラは病床に伏すことが多くなり、しばらくモデルになることができなかった。

 翌年の1924の2月になり、ふたたび、椅子に座ることができて、ようやく絵ができあがったのだという。

 

 その夜、アラベラは秘書を連れて絵が置かれた部屋にはいり、手を借りながら、肖像画を虫眼鏡で確かめた。そして、キャンバスを裏返しにさせ、「この絵を愛する息子、アーチャー・ハンティントンに贈ります。A.D.H./A.M.H/1924」と書いた。そしてすぐに、同じくニューヨークに住んでいるアーチャーの元に届けさせた。 (A.D.H. はアラベラの名前、A.M.H.はアッチャーの名前の頭文字である。)


 そして、すぐにコピーを1枚注文したのだという。ヘンリーのためにである。

 アラベラは肖像画を息子に届けた日から、6ヶ月後に亡くなった。


 では、現在、サンマリノのハンティントン・ライブラリーで一般公開されているアラベラの肖像画はコピーなのだろうか。裏にサインがあるかどうか見ればわかるのだが、見せてはもらえない。


  その肖像画を絵を見た子供がおそろしがって逃げたとか、ある人は「近寄るな」と言われているようだとか、「なにをやっているんだ」と叱られているようだと感想に書かれている。

 たしかに、絵の中のアラベラは睨んだようなこわい目をしている。


 でも、それが睨んでいる目ではない。疲れて閉じたい目蓋を持ちこたえているのだと思う。アラベラが愛するアーチャーのことを思いながら、「しっかりと生きなさい」と訴えている目なのだと思う。

 

 アラベラが死んで、ニューヨークの家とたくさんの美術品、宝石類は、すべて、アーチャーが相続した。

 美術品の中には、誰もがほしがる作品が多かった。中のひとつは、レンブラントの「ホロメスの胸像を見つめるアリストテレス」である。アレキサンダー大王の教師だったアリストテレスが、尊敬する万学の祖といわれる盲目のホロメスの胸像の頭に手を置いて、考えこんでいる絵である。

 この絵は画商に買い戻してもらった。画商が売らずに手元もおいていたが、ディラーの死後、ようやく売りにだされた。それをメトロポリタン美術館が買い取り、今ではメトロポリタンの宝になっている。

 

 ヘンリーはアーチャーに、アラベラの所有していた絵画をひとつでもほしい、買い取るから譲ってほしい。サンマリノには、自分のコレクションとは一緒にしないで、アラベラのメモリアルとして特別な部屋を作るから譲ってほしいと頼んだ。

 しかし、アーチャーは一ヘンリーの願を聞きいれようとはしなかった。他の美術館には「父親の思い出」または、「アーチャーからのギフトとして」、他の美術館にはたくさんの寄贈をしたというのに。


 後に、アーチャーがアラベラの遺品のいくつかをオークションに出した時、ヘンリーはこっそりと入札して、ルネッサンス時代の絵画を数枚買った。それはサンマリノの「アラベラの部屋」に飾られて公開されているのだが、アラベラの生涯のコレクションは、その何千倍もあったのである。


 アーチャーにしてみれば、芸術をわからないヘンリーなど何も渡したくないということなのだろうか。それとも、嫉妬からなのだろうか。どちらも、アラベラの愛を独占したかったのだろうか。

 

 アラベラが死んだ翌年、アーチャーは「お母さんへ」という詩集を自分で出版した。13の短編詩からなる小さくて〈13×22センチ〉古風な紙を使った素朴な作りである。アラベラという名前は一切使われておらず、

 「TO MY MOTHER」 by Archer Milton Huntington と書かれている。  


 難解な詩が多くて、意味していることが、私にはもうひとつわからない。アーチャーには、この詩集に関しては、他の人に理解してもらおうという意志が全くないように思われる。ただ母親だけにかわってもらえれば、それでいい、とそういうことなのだろう。


 でも、最初の詩はわりとわかりやすいので、それを訳してみよう。


「時間の最後の橋を越えて、あなたは永遠に行ってしまった、

愛する人よ、ともに生きた楽しい日々は、今では、淋しい影になってしまった。

あなたのことを思い出そうとしても、荒れる吹雪に視界が閉ざされてしまったようで、何も見えない、

いつか、どこかの港であなたと会い、その愛がふたたび私のものになりますように!」


 お母さんへというタイトルがなかったら、恋人に書いているような詩である。


 さいごに、これは最近のことなのだが、興味深いことがあったので、そのことを書きたいと思う。

 私の友達の叔母がサンマリノのハンティントン美術館で30年も案内の仕事をしていたということがわかった。その叔母は、数年前に引退したのだが、友達とは電話でちょくちょく話をするのだという。

 私は飛び上がって喜んだ。ぜひ、聞いてみたいことがいくつかあった。あの肖像画の裏のサインのこともそうであるが。叔母さんは、美術館について、どんなことを知っているのだろうか。

 しばらくしてその友達から電話があり、こう言った。

「ごめんなさい。叔母さんったら、何も知らないんですって」

 そして、こう付け加えたのだ。

「あそこでは、ミセス・ハンティントンについて語ることは禁じられていたのですって」


「それがわかっただけ充分、ありがとう」と私は電話を切って、それはおもしろいことだと思った。アラベラは死んだ後でも、詮索されることを嫌っている。


 ふたりの夫からも、息子からもあれほど愛されたアラベラなのに、いつも怯えていた。彼女はパリにホテル〈高級マンション〉を持っていた。そして、もし、アメリカから急に逃げなければならなくなった時、すぐに船に乗れるように、いつも準備をしていたという。

 アラベラが一番恐れていたのは、アッチャーが私生児だということが、世間に知られることだったろう。「緋文字」の時代、アラベラはそのことで、愛する息子が傷つけられることを、何よりも恐れていたのだと思う。


               *


アラベラ・ハンティントンの肖像画は近況ノートに載せましたので、ご興味のある方はどうぞ見てください。

 ひとつ書き忘れたので、ここに付け加えますと、ニューヨークには高級宝石店として有名な「ハリー・ウィンストン」があります。アラベラが死んだ2年後の1926年に、ハリー・ウィンストンはアラベラの宝石類を1.2ミリオンドルで買い取りました。これを今の円に換算しようとしましたが、数字が多すぎて、私には無理でした。

アラベラはそのくらい高価な宝石を持っていたということです。

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