3人のハンティントンとアラベラ (3) アーチャーは美術館オタク


アーチャー・ハンティントンは19歳まで養父コリスの造船所で働いており、ゆくゆくは社長になるはずだった。けれどある日、彼は働くのを辞めることを決心、これからは趣味に生きようと決めた。

 そういう生き方をしたい人は多いけれど、現実にはそんなことを決心できる人はめったにいないだろう。つまり、ここからは親のお金で生きていこうというのだから。なんてSpoiled Brat(金持ちの甘やかされた子供のこと)と、私はちょっとむかついた・・・・。


 そんな息子を心配したアラベラが、ヘンリーに説得を頼んだのだった。

 その時、アーチャーは母への手紙に、

「ヘンリーは美術や本のことなど、何もわかっていない人だ」と書いた。つまり、ヘンリーは自分の趣味を理解などできない人だと書いたのだ。

 最初っから。ヘンリーを嫌っている感じである。


 アーチャー・ハンティントン(1870-1955)は子供の時から学校には行かず、個人教師について勉強した。有名な私立学校に行こうとしたが、出生が理由で、断られたのがきっかけだという説もある。クラスで勉強はしなかったが、世界の美術館を訪れた。

 

 アーチャーが、はじめて美術館を訪れた12歳の体験を書いたものがあるので紹介してみよう。


「今日、(ロンドンの)ナショナル・ギャラリーにウォレス(召使)と行った。こういうものは、今まで見たことがなかった。お昼の後、また行って、閉館になるまでそこにいた。

 美術館に、こんなにたくさんの絵画があるなんて、知らなかった。足がくたくたに疲れて、もう歩けなくなり、ホテルに戻った。そして、もう目が見えなくなるまでカタログを読んで、寝たんだ。

 美術館というのは世界で一番すばらしいところだと思った。できるなら、ここに住みたい」


 その1カ月後、彼はロンドンからパリに行き、ルーヴル美術館を訪れた。


「あの時の感動は、今もはっきりと覚えている。

 何マイルと続く絵画の列。ぼくは召使を残して、ひとりで歩き回った。

 しばらくすると疲れて、もう絵が見られなくなった。ぼくはバカみたいな気分になり、具合が悪くなり、腰を下ろして休んだ。

 でも、しばらくすると、突然、具合がよくなり、もう疲れを感じなくなっていた。

そして、うれしくて、歌いたい気分だった。

 その時、ぼくはまだ絵のことは何にも知らなかった。でも、直感的にわかった。自分は今、新しい世界にいるのだと」


 初めてナショナルギャラリーやルーヴルを訪れた時には、誰も似たような体験をすると思うけれど、それをこんなふうに素直に書けるというのは、できそうでできないことだ。12歳のアーチャーの率直な感動を読んで、私は彼に好感をもつようになった。そうか、19歳になって、突然、趣味に生きようと思ったわけではなかった。


 アーチャーは12歳の頃から、すでに自分の美術館を建てようと決めていた。

 彼の家系がスペイン系だというわけではなかったけれど、彼の興味は主にスペインとポルトガルに向けられていた。

 ニューヨークに帰ると、個人教授についてスペイン語、アラビア語などを勉強し始めた。そして、会社を辞めて、20歳になると、実際、スペインへの長期の旅を実現させ、ますますスペインに没頭していったのだった。


 1904年に、アーチャーはニューヨークに「ヒスパニック・ソサイァテイ・オブ・アメリカ」というすばらしい美術館を建てた。

 それはニューヨークの155番地にあり、訪れてみると、想像を超える規模である。


 スペインにマホアキン・ソローリャ(1863-1923)という偉大な画家がいる。彼はモネの時代の人で、その海や光、日常の風景などを描いた作品はとても魅力的である。アーチャーはソローリャに大作を依頼し、それが完成した時には、美術館の周囲には長蛇の列ができた。

 その美術館は今でも無料で一般公開されている。この美術館の存在、ソローリャの絵画などは日本ではあまり知られていないかもしれないが、行ってびっくりする場所である。


 彼はその他にも、さまざまな美術館にかかわっており、寄贈した芸術品の数は数え

切れない。またスペインの英雄「エルシド」の翻訳者としても知られ、著作もたくさんあり、ハーバードやエール、コロンビア大学などの有名大学から名誉博士号を与えられたのだった。


 アーチャーは生涯に、それはたくさんの美術品を集めたり、美術館を建てたりしたが、いったいどんな仕事をしてその資金を集めたのだろうか。


 仕事を辞めた日のことを、母親のアラベラに書いた手紙が残っている。


「1月26日〈1889年〉は忘れられない日です。その日は、ぼくは会社を辞めることについて、上司のキャプテンと話し合いに出かけたのです。

彼はものすごくショックを受けたようでした。「落胆した」とやわらかく書きたいところなのですが。

 

 ぼくという若い愚か者はスペインや美術館に興味があり、何千という船を扱うビジネスには興味がないということを説明しました。彼は文学とか芸術とかいったことに対して、どんなふうに対応してよいのかわからない様子でしたが、とにかく、喧嘩別れにはならななかったのが幸いです。(中略)

 

 もちろん、このことであなた(アラベラ)やお父さんをどんなにがっかりさせたのか、それはわかっています。でも、ぼくが造船所建設の仕事をするなんて、それは象に刺繍をさせるようなものです。それを好きな人が、その仕事をすべきだと思います」


 というわけで、以後、アーチャーは旅行をし、美術品の蒐集をし、数々の美術館にかかわり、翻訳、詩作をし、著作もたくさんある。

 

 彼は一切働いていないわけだから、ヒスパニック・ソサイァテイ美術館の土地を初めとして、すべて親からもらったお金で、その夢をかなえたのである。

 若い時に夢を見つけ、その道をつき進み、資金には一切困りはしなかった。世の中に、こんな幸せな人間はいるのだろうかと思うくらいである。


 だがそんな彼にも一度だけ、死にたいと思った時があるという。一度目の妻〈コリスには作家の妹がいるのだが、その娘で、彼女も作家〉がイギリスの俳優と恋におちて去っていった時のことだ。その時はストレスからくる飽食から、巨体な肥満体になって、窓から飛び降りたいと思ったことがあるのだという。

 しかし、その後、堅実な彫刻家のアン・ハイアットと再婚して落ち着き、詩作中心の、穏やかな生活を送ったようである。


 アーチャーは美術館を建てただけではなくて、いろいろな美術館にたくさんの贈呈をしている。そこで、ちょっとおもしろい発見をした。


 父の コリス・ハンティントンが亡くなった時には、多くの美術品が、「コリス・ハンティントンの遺品」として寄付された。メトロポリタン美術館にあるフェルメールの「窓辺でリュートを弾く女」もそのひとつである。


 けれど、アラベラが亡くなった時、母親のコレクションは、「父コリス・ハンティントンの思い出として」として寄贈している。

 メトロポリタンの至宝、レンブラントの「フローラ」、「ヘンドリッキュ」などがそうである。


 アラベラという母親の名前はどこにもない。それはアラベラが息子にそう言い残したのだと思われる。人はこの世に、自分の名前を残したいと思うのが普通なのに、アラベラの場合はその逆だった。

 

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