3人のハンティントンとアラベラ (2) ヘンリー63歳の恋
次はヘンリー・ハンティントン(1850-1927)のことを語ってみたい。
ヘンリーはコリスの甥で、17歳の時から金物屋で働いていた。21歳の時、叔父のコリスが彼の仕事熱心なところを見込んで、自分の会社で働かないかと誘った。
その時のヘンリーはこれはチャンスとその話に飛びついたわけではなく、「そこでは、いくらもらえるんですか」と訊いたそうである。その言葉からは現金な人のような印象を受けるかもしれないが、これは全くヘンリー彼らしくないエピソードである。
コリスのところで働くことになったヘンリーは、叔父にずうっと従順だった。
叔父のコリスは火の玉のようなアグレッシブな男だったが、ヘンリーは青い瞳のブロンドでハンサムで、とても静かな性格だった。その働きぶりは真摯で真面目で、やがてコリスのなくてはならない片腕になった。
コリスが亡くなった時、莫大な遺産の半分はアラベラに贈ったが、あとの半分はヘンリーに残したことが、それはコリスが甥をどのくらい信頼していたかを物語っている。正式に養子縁組をしたアーチャーには何も残さなかった。それまでに充分すぎる金を与えたからなのか、自分の実子だったとまた騒がれるのを避けてなのか、そこはわからない。
ヘンリーは自分でもカリフォルニア南部ロスアンジェルスのほうに鉄道を伸ばし、「鉄道王」と呼ばれているだけではなく、他にもさまざまな事業を起こし大成功した人なのである。
ヘンリーの最初の妻はコリスの最初の妻の姪で、4人の子供をもうけたが、その結婚は幸せではなかったようだ。
親戚同士の結婚は財産を散らばらせないためで、そこには愛が生まれなかったのかもしれない。彼はずうっと仕事中心の生活を送っていた。
どうもヘンリーは同じ年齢のアラベラに、憧れの心を抱き続けていたらしい。
ヘンリーは63歳で離婚を決め、アラベラをパリまで追いかけていって、求婚したのだった。すごいね。
ヘンリーもアラベラも超有名人だったし、夫の甥との結婚というのはスキャンダルだった。それに63歳のふたりがパリで結婚なんて聞くと、やはり人々の興味が湧いてくるというものだ。
しかし、アラベラは色気を売りにして男をつかむタイプとは全く違うのである。またアラベラには使い切れないほどの財産があるのだから、お金のための結婚ではない。ヘンリーのほうも、アラベラ以上に金持ちで、財産が目的ということは微塵もなかった。
アラベラは世間の話題になることを嫌うというか、生涯、スキャンダルを極力避けて生きた人なのだった。自分の過去が知られて、コリス・ハンティントンが結婚していた時から付き合い始め、アーチャーがコリスの実子であることを知られたくなかった。ニューヨークでは、ジャーナリストから追われたら、いつでも船で逃げられるように、準備がしてあったという。
そんなスキャンダルを嫌うアラベラだったが、ヘンリーに強く乞われて、ようやく結婚を決めたのだ。それは、アラベラが、ヘンリーに寂しい余生を送らせたくなかったのだろう。きっとやさしい人なのだと思う。
ヘンリーの最初の結婚は、幸せなものではなったようだ。でも、子供もいたことだし、人生はそういうものだと妥協して、そのまま進んでいけたかもしれない。行けそうだ、と思う日もあったと思うが、ある日、彼は考えたのだろう。どうせ一度の人生なら、風評などを気にしないで、思うように生きてみたい、と。
ヘンリーはアラベラを深く愛していた。
彼は余生を愛するアラベラとともに暮していきたかったのだろう。
そんなアラベラの魅力って、何なのだろうか。
ヘンリーのその頃の写真を見ると、とても端正な顔立ちなのには驚かされる。
一方、老年になったアラベラの写真を見ると、外観の魅力はあまり見られず、高価な喪服を着た小太りのおっかなそうなおばさんという印象なのである。(近況ノートに肖像画を載せました)
アラベラは子供時代は貧しくて、学校には行けなかったが、独学でフランス語、歴史、美術について学び、知識が豊富だったという。趣味が高尚だったというから、仕事しか知らなかったヘンリーは話をしていて、楽しかったのだろう。近くで暮らしていたから同じ思い出が多いところも、よかったのかもしれない。
ヘンリーはゴシップが飛び交うロスアンジェルスの中心から離れた「サンマリノ」という場所に、広大な土地を手にいれた。そこに、邸宅を建て、図書館を作り、大庭園も造った。もっとも彼自身は、その「家」をバンガローと呼んでいたのだが。
その頃、彼が姉に送った手紙の中で、「私には心休まる家というものがなかった」、「アラベラはとてもやさしくて、ぼくはとても幸せです」と言っている。本当にアラベラが好きだったようだ。
彼は美術に詳しいアラベラとともに、イギリス関係の絵画や稀本などを中心に、蒐集を始めた。イギリスを選んだのは、イタリア、フランス、スペインの分野では、すでにかなりのものを集めたコレクターがいたからだろう。
ヘンリーのコレクションの中には、有名なゲインズボローの絵画「ブルーボーイ」やローレンス「ピンキー」があり、イギリスから国外に持ち出される時には、大騒ぎになったものである。
それは今、サンマリノの「ハンティントン・ライブラリーとアートコレクションと庭園」として、一般に公開されている。
広大な庭には、ギリシャの神殿をデザインした大理石のすばらしい大霊廟が建てられている。ヘンリーとアラベラのための墓である。
アラベラは73歳で亡くなり、ヘンリーが亡くなったのはその3年後、今、そこにふたりは並んで眠っている、はずである。
はずであると書いたのは、アラベラが亡くなった場所はサンマリノではなくて、住み慣れたニューヨークだった。
その時はまだサンマリノに霊廟を建てられておらず、息子のアーチャーが、ニューヨークのブロンクスにあるハンティントン家の霊廟のそばに埋葬したのだった。今でも、そこにはアラベラの墓碑が立っている。
ヘンリーはアラベラの死後、サンマリノの敷地内の、アラベラが生前に選んだという場所に、大きな大霊廟を建築し始めた。
設計したのは著名な建築家のポープで、彼は後に、首都ワシントンに、ジェファソン記念堂をデザインした人である。
ヘンリーが亡くなった時、アラベラのお墓は掘り起こされ、その棺桶は大陸横断し、ヘンリーの隣りに埋葬されたのだろうか。そんな疑問が、私の中にある。
いろいろと調べてはみたのだけれど、まだわかってはいない。アラベラがサンマリノに埋葬された記事が見つかっていないのである。
母の遺体を運ぶのが息子のアーチャーに任されていたとしたら、彼はそれをするはずがない。愛する母を、やがては自分が眠る土地から遠ざけて、遥か遠いカリフォルニアまで、連れていくはずがないのだから。
アーチャーとヘンリーの間には、アラベラを巡って、常に、確執があった。
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