3人のハンティントンとアラベラ (1) ワニのアンビシャン
「ビッグ・フォー」の一番の立役者はコリス・ハンティントン(1821-1900)と言ってよいだろう。彼がいなかったら、4人組の成功はなかったはずだから。
ハンティントンは我が強い、つまり自分の意見を押し通す人として知られている。
スタンフォードとはたびたび揉め、最後にはスタンフォードを社長から引きずり下ろして、自分が社長になった。
ハンティントンの事業はカリフォルニアに留まらず東部にも伸び、造船所、不動産など幅広いビジネスで、その富は4人の中でもずば抜けていて、当時としてはアメリカ一の富豪になった。
サンフランシスコの新聞王と言われたハーストとは犬猿の仲で、ハーストは新聞に「ハンティントンには、ワニほどの情けもない」と書いたことがある。
ふたりとも歯に衣を着せぬ発言をする人で、ある意味似ていたし、世間から恨まれていた。
コリス・ハンティントンはそんなことを書かれたくらいで怖気づく男ではない。
「敵が多いことを、誇りに思う」
と言い切っている。評判なんか、気にしない。
こういう図太い根性をしていたから、手がけるビジネスが次々と成功していったのだろう。
コリス・ハンティントンはコネチカット州生まれ。貧しい農家で、兄弟が9人もおり、小さい時から働きに出た。
1849年、28歳の時、カリフォルニアで金が見つかり、大勢の人が向っているという話を聞いて、彼も西部を目指した。
東部から西部に到達するために、当時の人々は陸で行った人もいるが、多くの人は船を使った。
船の場合、東部からまずパナマまで行く。そこから陸を太平洋側まで数日間歩き、港で船を探して、サンフランシスコ港まで行くのである。
だから、彼の場合、出発してからサンフランシスコ港に到着するまでに、6ヶ月もかかった。
しかし、ハンティントンはサンフランシスコ行きの船を探している間、パナマの港でただじっと待っていたわけではない。その数ヶ月間に、パナマの東西を何度も往復し、物を買ったり売ったりして、持参してきた資金1200ドルを5000ドルに増やしたのだった。彼は頭の切れる働き者だった。
サンフランシスコに入港すると、彼はサクラメントに行った。サクラメントの近くで金が発掘されていたからである。
しかし、彼は金を掘りに出かけたりはせず、そこで雑貨商の店を開いた。ものがあれば売れる時代で、仕事は順調にいった。でも、それは普通レベルの成功で、彼はそんなことで満足するつもりはなかった。さらなるチャンスを虎視眈々と狙っていた。
そしてチャンスがきた。
店を開いてから10年余りが過ぎた1860年、サクラメントの町で、テオドル・ジュダという青年技師が講演会を開いた。ハンティントンは、そこに出かけてみた。
講演会のテーマは「西部に鉄道を引こう」というもので、そのための資金を集めのものだった。ハンティントンはジュダの熱っぽい演説を聞いているうちに、ふと思ったのだった。これこそが、待っていたチャンスというものかもしれない。
当時はシェラネバタの厳しい山脈に鉄道を通すなど不可能だと言われてきたし、ハンティントン自身もそれはできるはずがないと思っていた。
けれど、この若い技師の話を聴いたら、これはやればできるという気がしたのだった。
成功する人の決断と行動は速い。
さっそく商売のパートナーだったマーク・ホプキンズに相談した。ハンティントンには粘り強い交渉力があったし、ホプキンズは会計に長けた金庫番。しかし、これだけでは事業は成功はしない。
スタンフォードを選んだのは、その政治力に目をつけたのだ。彼は南北戦争で北軍を応援したことから、リンカーン大統領とも親交があった。
クロッカーは推しが強く、行動力があった。荒っぽい労働者を束ねるには、こういう人材が必要なのだ。
それで、それぞれの能力を持った同じ町に住む4人、ハンティントン、ホプキンズ、クロッカーとスタンフォードが鉄道会社を作ったのだった。後にこの4人は「ビッグ・フォー」と呼ばれるようになった。
ハンティントンは首都ワシントンに行って、ロビー活動、つまり政治活動を始めた。口が上手というより、適材適所に、賄賂をばらまいたらしい。
誰が役にたつのかを見極められる眼力と、後には引かない強引さが、彼の才能だった。普段はケチで有名なのだが、必要な時には、金は惜しまなかった。
やがて西部まで鉄道を引くという案は下院上院を通り、多額の助成金がもらえることになった。
線路は平地よりも、丘や山の工事のほうに敷いたほうが補助金が多く出た。だから、彼の会社が提出した書類を見ると、平地なはずの土地に、山と記載されていることなどがあったようだ。
というわけで、前にも書いたように、鉄道が完成した時、4人はすでに大金持ちになっていたのだった。
私生活ではコリス・ハンティントンは最初の結婚では子供ができず、妻がガンで亡くなった後、アラベラというニューヨークに住む33歳の子連れ女性と再婚した。アラベラは彼より30歳も年下だった。
ニューヨークで出会ったということになっているが、ふたりの付き合いが始まったのは実はアラベラがまだ十代の頃。バージニア州のリッチモンドでアラベラの母親が下宿を営んでいた時だと言われている。
アラベラのひとり息子は、実はハンティントンの実子だと言われているのだが、彼らは強く否定している。
真実を執拗に追いかけたジャーナリストもいたが、ハンティントンはぜったいに尻尾を掴ませなかった。ふたりの付き合いが不倫で、子供が私生児だとわかると大問題になる時代なのだった。
コリス・ハンティントンは背も高く、また人に圧を与える雰囲気があり、みんなに怖れられていた。彼はとても厳しい人で、弁が立ち、たとえば相手を部屋のコーナーにまで追い詰めてパンチを浴びせるように
けれど、アラベラにだけはやさしかったようである。アラベラは彼のことをとても楽しい人だと言っていた。
ハンティントンが亡くなった後、大地震でサンフランシスコの屋敷は崩壊し、土地だけになっていた。アラベラはその土地をサンフランシスコ市にそっくり寄贈した。それがグレース大聖堂の前にあるハンティントン・パークである。いるかの噴水と、輪になって遊ぶ子供達の彫刻の噴水がある公園である。
アラベラほとんどニューヨークの五番街の邸宅か、パリのホテル(これはアパート、日本でいうマンションのこと)で暮らしていて、サンフランシスコには訪れたことはあるが、住もうとはしなかった。文化のないこの町を好きではなかったようだ。
またアラベラがパーティをしようとしても、誰も来てはくれなかったという話も残っている。上流社会の夫人たちが、彼女の素性を嫌っていたらしい。まあ、よくある話である。
アラベラは夫が死んだ後、生涯、喪服を着ていた。
後にまた結婚することになるのだが、それからも、ずうっと黒い服を着続けていた。
ところで、アメリカにはいたる所に、「ハンティントン」という名前を見かける。カリフォルニアではまず思い浮かぶのが、ハンティントン・ビーチ。でも、その他に、さまざまな美術館、図書館、施設、公園など、たくさんある。
「ハンティントン・ビーチ」といっても、東部のバージニア州のニューポートにもある東部の「ハンティントン・ビーチ」は、コリス・ハンティントンに由来している。彼はそこに、造船所を所有していたのである。
しかし、ロスアンジェルスのほうにも「ハンティントン・ビーチ」があるのだが、こちらはコリスの甥のヘンリー・ハンティントンに由来する。このヘンリーは「ロスアンジェルスを作った男」と言われている。
そして20近くの美術館にかかわったハンティントンは、アーチャー・ハンティントンで、アラベラが溺愛したひとり息子である。
コリス、アーチャー、ヘンリーとそれぞれ違う3人の大物ハンティントン、コリスはアラベラの夫、アーチャーは息子、そしてヘンリーはアラベラの次の夫になった人である。
なんだかよくわからなくなったという人はちょっと待っていただきたい。ここからひとりずつ説明していくつもりなので。
とにかくこの3人のハンティントンに共通していることは、アラベラを深く、愛していたということである。
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