スタンフォードの決心 (2) 息子のために何ができるか
運命の女神は、60歳に手が届こうというスタンフォードに、このような残酷なシナリオを用意していたのだった。
彼はこれまでは、仕事の上ではさまざまな苦難があったが、どんな時でもマイナスをプラスに変えて乗り越えてきた。
おれは強い男なはずだった。でも、もうだめだ。
ああ、今まで、何のためにがんばってきたのだろう。彼は押し寄せて返していかない悲しみに、頭を抱えるしかなかった。
スタンフォードは人生の中で、一番長い夜を迎えた。
その夜中に、ジュニアが現れた。そして、彼は言った。
「お父さん、これからは人のために尽くしてくださいね」
夢なのか、現実なのかわからないのだが、息子はそう言ったのだ。
翌朝、スタンフォードは、生きる意味がわからず、蝋のような顔色をしている茫然としている妻のジェーンにこう言った。
「ジェーン、カリフォルニアの子供達は、みんな自分達の子供なんだよ。これからはそう思って生きることにしよう。子供たちのために、何ができるだろうね」
子を失くした親の悲しみがどんなに深いものだったか。父親スタンフォードは何にも言わないし、書き残してもいない。
けれど、母親のジェーンが息子の墓に刻ませた詩から、少し垣間見ることができる。
普通、墓石には「愛をこめて」、「安らかに」などと刻むものだが、これは違う。ジェーンはある詩を刻ませた。それは彼女がある本から見つけたもので、追悼詩としては、一風変わっている。
それはこんな詩、自己流に訳してみた。
「いつもあなたがいるところに、歌があったわね。
あなたはいろんなことを話して、いつまでも尽きることがなかったわ。
あなたはさまざまなことを愛していたわ。
あなたは何にでも興味をもっていて、夢中になったわね。
それなのに、死がきた。
今は、何の音もしない。悲しみだけが漂っている。
ねぇ、あなたはここにはいないのでしょう。
あなたが、こんな場所で眠っているはずがないわ」
大好きなことが多くて、生きることに夢中だった息子が、地上ではもう明日を生きる権利を与えられなかった。
あの子が、この世では、もう何もできないだなんて、不憫すぎる。歴史の本も読むことができないし、好きな絵も見られない。笑うこともない。そのことを考えると、ジェーンは耐えられない。これをどのように考えればよいのか、わからない。
他の人々は、「あなたの息子さんはもう神様のもとにいるのだから、何の心配もいらないのです」と言って慰めた。
「神様には大きな計画があるのです」と言う人もいた。
ジェーンもこれまではそう思って生きてきたし、同じような言葉をかけたことがあった。でも、もし神に別の計画があり、それを叶える手段のために、彼の生命が取られてしまったのだとしたら、それはあんまりではないか。
ジェーンは思う。神はいるのだろうか。ジュニアがいなくなったこの世界で、私は何のために、生きているというのだろう。
ジェーンは答えを探した。
けれど、どの本の中にも、答えはなかった。
前向きな考え方をするとか、忘れるとか、そういう問題ではないのだ。他のことでは可能なことでも、「死」に関しては違う。
子供をあの世から取り戻す以外に、解決法なんてない。しかし、それは不可能なことなのだ。ジェーンが長い苦しみの末にわかったのは、悲しみからは逃れることができないということだ。
その時見つけたのが、あのような詩だったのだと思う。その詩が、どんな状況で作られたのか、それはわからないのだが、その作者も、胸の張り裂ける思いしたことは確かなのだ。
スタンフォード夫妻は息子がこの世にいたしるしを残すために、さまざまな構想を練り、そして「スタンフォード大学」を設立することにした。
だから、大学の正式名は「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学」、息子の名前である。
大学は1891年に開校した。
その2年後に夫のスタンフォードが亡くなった後、経済的な理由から、閉校の危機が何度も訪れた。それを乗り切ったのは、あの内気な性格だと言われていたジェーンの叡智と懸命な働きだった。
上流階級の夫人の生活に慣れていたジェーンだったが、経費を削減たせるために、個人的な贅沢は一切やめ、30人近くいた家政婦にも暇を出し、その分で教員の給料を支払った。
ジェーンはたぶん、息子が死んだ時に、自分も死んだのだ。
だから人からなんと言われても平気だった。苦労も、嘲笑も、屈辱も、何ということはなかった。息子のためなら、どんなことだってできた。
どんなことをしても、息子がこの世にいた証を残したいという母親の強さだろう。
ある時、経済的援助を頼むために、首都のワシントンの政府高官と会いにでかけた時、ホテル代を節約して、車の中で寝たことがあった。
その夜、ジェーンは涙を流した。
境遇が辛くて泣いたのではなかった。最高にうれしいことがあったのだ。会いたくてたまらなかった息子が、会いにきてくれたのだった。
そこはどこだかよくわからないが、ジェーンが歩いていくと、門があり、その入口にはたくさんの人達がいて、出迎えていた。
一番前で待っていたのは息子のジュニアだった。
あなたなの?
「ママ、ママ」、
ジュニアは誰よりも激しく手を振っていた。
本当に、ジュニアなのね。ああ、元気に手を振って、あの子らしい、とジェーンは笑った。久しぶりに笑った。
ジュニアは走って駆け寄ってきて、「ママ」と抱きついた。ああ、あの懐かしい抱き具合、あの匂い。
「ママを置いて、どこへ行っていたの?あなたがいなくて、ママがどんなに寂しい思いをしたか、わかっているの」
ジェーンはもう二度と離さないわと強く抱きしめた。
するジュニアはママの首に強く抱きついて、こう言ったのだった。
「ごめんね、ママ。ママは、ぼくのためにいろんなことをしてくれているんだね。世界で一番大好きなママ、ありがとう。大好きだよ」
ジェーンは目が覚めて、それが夢なのだとわかった時、いつもの悲しみと虚脱感がまたやってきた。プラットホームにひとり残されたような漠漠とした思い。これを通り抜けるには、いつも時間がかかるのだ。
いいえ、今は違うわと、ジェーンは自分を奮い立たせた。
私には使命がある。私は強くならなくてはならない。どんなことをしても、このジュニアの大学は継続させていかねばならないのだ。
創立から138年以上も経ったが、スタンフォード・ジュニア大学は、今も続いている。
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