スタンフォードの決心 (1) スタンフォードのアンビシャン

          スタンフォードの決心


        

 ゴールドラッシュ時代の成功者と言えば、一番有名なのが「ビッグ・フォー」と呼ばれる「4人組」である。


 ハイティントン、スタンフォード、クロッカー、ホプキンズ、この4人は、金を発掘して儲けたわけではない。大陸横断する鉄道を敷くことにより、信じられないような財を築いたのである。


 当時、東側にはすでに鉄道が敷かれていた。

 4人組が手がけのは 中西部のミシシッピからカリフォルニアまでの3000キロ余り。工事にかかった年数は約7年。

 土地は国が提供し、建設資金のほとんども政府からの助成金だった。だから、鉄道が完成した時、この4人はすでに大金持ちになっていたのだ。

 

 当時、知事だったスタンフォードが鉄道会社の社長になった。しかし、このアイデアをテーブルに乗せた中心人物はハンティントンで、彼がワシントンでの政府との交渉をした。

 建築現場はクロッカー、帳簿はホプキンズが受け持った。この3人はサクラメントの商店を経営しており、まさに適材適所の仕事配分だったのである。


 後に、助成金の不正請求については疑惑の声が上がり、国会で公聴会が開かれたが、ホプキンズというしっかりした番頭がいたから、不正の証拠は何も出なかった。コンピュータがある今の時代なら、そんな具合にはいかなかったかもしれない。


 

 さて、大金を手にした4人は、そろってノブヒルという丘の上に豪邸を建てたのだった。最初にノブヒルに目をつけたのは、スタンフォードだった。

 もともとノブヒルは貧乏人が住んでいた場所。その貧乏人から土地を買収、スタンフォードはそこまでケーブルカーを引いた。

 ダウンタウンはギャングがたむろする地帯と隣接していて、家族を住まわせるには危険すぎたが、丘の上は安全で、眺めも美しい。

 

 それでは「泥棒男爵」と呼ばれた4人組のひとりスタンフォードが、実はどんな人間で、どういう理由で、あの有名な大学を建てることになったのだろうか。

 まずはそのあたりから始めてみよう。 


*   

  

 リーランド・スタンフォード(1824-1893)は、日本では勝海舟と同じ頃の人である。

 彼はニューヨーク郊外に、農夫の息子として、8人兄弟の5男として生まれ、大学を出て弁護士になった。そして、ウィスコンシンに行って、商人の娘ジェーンと結婚、弁護士事務所を開いた。


  仕事は順調にいっていたのだが、2年後に火事が起きて、せっかく集めた法律関係の本、資料を全部焼失してしまった。六法全書のような本が手元にないということは、外科医に手術道具がないのと同じで、仕事ができないのである。かといって、簡単に本が手にはいる時代ではなく、再び買い揃えるには莫大なお金と時間が必要だった。彼はこの先どうして生きていこうかと思い悩んだ。

 

 誰でも絶望する時が必ずある。絶望の底にいる時、そこから何かを見つけだし、力を振り絞って這い上がることができるかどうか、それが大事なところ。


 スタンフォードは、西部にひとつの光を見つけた。

 そうだ、新天地、カリフォルニアに行って一からやり直そうとそう思ったのだ。


 サンフランシスコ郊外のサクラメントには、彼の兄がいた。サクラメントという町は、金が発掘されたアメリカンリバーという場所の近くにある。金を発掘に来た人々は、ツルハシ、スコップ、洋服、食べ物をこの町で購入していたのだ。


 スタンフォードは妻のジェーンを実家に戻して、ひとりカリフォルニアのサクラメントにやってきた。

 まずは兄の雑貨屋で働いたのだが、その働きぶりは猛烈で、朝から深夜まで休むことなく動き回り、夜は店のカウンターで靴を枕にして寝たのだという。そして、3年後、自分の店を持ち、ようやく妻のジェーンを呼ぶことができた。


 その後、商売が落ち着くと、彼は元弁護士なので政治運動に加わり、1863年にはカリフォルニア州の知事に選ばれた。

  その時、同じ町に住んでいた商人のハンティントンに誘われ、「ユニオン・パシフィック鉄道会社」という鉄道会社を結成に加わり、社長になったのだ。


 44歳の時には、息子のリーランド・ジュニアが誕生した。

 夫婦はもう若くはなく、子供のことはほとんど諦めていたのに、なんと待望の子供が誕生したのだった。よいことが続いていた。

 

 1 869年、シェラネバタ山脈に鉄道を通すという大事業が完成した。西と東の線路が、最後につながった場所はユタ州のある町で、そこで一大セレモニーが催された。

 

  社長のスタンフォードが、金の釘を銀色のハンマーで枕木に打ち込んだ。

 時は南北戦争の4年後、これで合衆国の東と西がつながったりだ。アメリカがひとつになったのだ。アメリカ人にとっては記念すべきうれしい出来事だった。


 この開通式は、アメリカ国民が、同時に、同じことを祝った最初のイベントだった。アメリカ全土の人々は鉄道開通のニュースに熱狂し、各地では花火がぼんぼんと打ち上げられた。


 その日の主役はスタンフォードだった。彼は人々が見守る中、線路に最後の釘、金色の釘を打ち込んだ。


 人々の歓声を聞きながら、彼はどんなか満たされた思いだったことだろう。

 火事で書物を失い途方に暮れた時には、運命の女神から見捨てられたと思ったけれど、実は成功への導きだったのだ。

 そして、待望の子供も生まれた。

 ほしいものはすべて手にはいった。自分は運の強い男なのだ。そんな思いを噛み締めながら、抜けるように青い空を見上げていたことだろう。


 息子のジュニアは親が望む以上に美しく、かしこく、優しい子だった。将来はどんなにかすばらしい人物になることだろうと、周囲の人は彼の成長を楽しみにしていた。


 その夏、ジュニアは15歳になった。

 歴史や美術が好きだった彼は、叔母や、家庭教師、召使とともに、2回目のヨーロッパ旅行に出かけた。


 途中のトルコで、ジュニアはお腹が痛いと訴えた。よく朝、叔母が具合を尋ねた時、「大丈夫だよ」とジュニアは笑って答えた。

 彼は腹痛なんかすぐに治ると思ったし、その日はシュリーマンが発掘したトロイの遺跡を訪ねることになっていたので、スケジュールを変更するのはいやだった。憧れのトロイが見たくて仕方がなかったのだ。


 しかし腹痛は我慢ができない状態になり、慌てた叔母はすぐに手配をして、ローマに運んだ。けれど、症状は一向によくならないどころか、高熱でジュニアの意識が朦朧としてきた。それで名医がいるというフィレンツェに移動したのだが、到着した時にはもっとひどい状態で、医者はそれがただの腹痛ではなく、腸チフスだと診断した。腸チフスは今でも危険な感染症だが、ワクチンのなかった当時は絶望的な病だった。


 その知らせをもらったスタンフォード夫妻は気が狂わんばかりにして、アメリカから駆けつけた。まだ飛行機がない時代なので、船で行くのだから、どんなに早くても数週間はかかる。ふたりの親は懸命に祈り、ジュニアの肉体も懸命に戦い続けた。


 両親が着いた時、ジュニアは生きていた。両親に一目会うまでは死ぬわけにはいかないとでもいうように、頑張り続けたのだろう。

 しかし、永遠の別れは目の前まできていた。

 スタンフォードは医者に、「死なせないでほしい」、「どんなにお金がかかってもかまわないから、なんとか治してほしい」と懇願した。


 けれど、医者は首を横に振るばかりだった。もうなすべき手はありません。

 両親には、目の前の現実が信じられなかった。あんなに希望に満ちて、うれしそうに旅に出たかわいい息子が、今は、目を閉じたまま、何も言わないのだ。

 いくら祈っても奇跡は起きず、ジュニアはただひとり、あの世に旅立ってしまった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る