ジュダという青年技師の夢の鉄道

 メリー・クリスマス!

日本はクリスマスイブの夜中、ここカリフォルニアは24日の朝が明けかかっているところです。


 私のサンフランシスコの物語は、ビッグ・フォーを書いているところで、スタンフォードとハンティントンの話が終わり、次はクロッカーとホプキンズの番です。


 ところが、クロッカーのところは隣人にいじわるをした話、ホプキンズのところは夫人が再婚し、マーク・ホプキンズの遺産がどうなったのかというソープ・オペラのような話です。

 これは聖夜にふさわしくないので、今日と明日はもっと心がきれいな方の話にしてみようと思います。


 まずはジュダという技師の話です。

 ハンティントンが鉄道をやろうとひらめいたのは、このジュダの講演にでかけて行って、その熱ある話を聞いたからです。

 ジュダはエンジニアとして夢の鉄道を作りたかったのですが、ハンティントンはビジネスのチャンスだと飛びついたのです。最初っから。目指しているものが違いました。

 ライオンのようなビジネスマン4人と若鹿のようなエンジニアがひとり、若鹿は勝てるのでしょうか。今日はそのジュダの話です。


  

             *




 セオドア・ジュダ(1825-1863)という好青年がいた。

 コネチカットの生まれで、父は牧師だった。彼は子供の頃から機械が大好きで、工科大学に進んだ。卒業するとエンジニアとして働き始め、ナイヤガラ瀑布の側を走る鉄道の仕事にかかわった。すでに20代そこそこで、仕事のできる技師として知られる存在になっていた。


 そう。ただジュダの経歴を話すのではおもしろくないから、ここからは妻のアンナに語ってもらうことにしよう。

 では、アンナさん、よろしくお願いします。

「でも、何から話したらいいか」

「では、出会いのことからでも」

「わかりました」


 それは私のファーストラブでした。

 一目で好きになってしまったのです。でも、セオドアったら機械にばかり夢中で、女の子になんか、目もくれません。でも好きになってしまったので、彼のそんなそっけないところも気にいりました。


 結婚できたのは、彼が21歳、私が19歳の時でした。その時、彼はもう立派なエンジニアでした。彼は小さな頃から鉄道が何より大好きで、寝ても覚めても、そのことばかり。いつか鉄道が大陸を横断する日がくるだろう。ぼくは鉄道の仕事がしたいんだって言っていました。


 ああ、覚えています、あれは彼が28歳の時のこと。

 出張先からニューヨークの家に、「明日、帰る。うちにいてください。カリフォルニアに行くことになったから」なんていう電報が届いて、もうびっくり。

カリフォルニアといえば、東部からははるかかなたの遠いところ。でも、彼が行きたいというのなら、どんなところへだって、私は行きます。


 カリフォルニアでの仕事は、サンラメント・バリーという所に、鉱山用の線路を敷く仕事でした。その時、彼は確信したのです。シェラネバタ山脈に鉄道を通して、国の東部と西部をつなぐことが可能なのだと。

 それが自分にはできるって、彼は燃えていました。当時は、シェラネバタの山に鉄道を敷くなんて、そんなことは不可能だと誰もが思っていました。


 カリフォルニアの仕事が終わるとふたりで東部に戻り、今度は首都のワシントンに行って、ロビー活動というのを始めたのです。

 鉄道を西側まで引くためには、政府の協力が必要です。土地も、資金もいります。でも、当時は南北戦争の直前で、そんな夢みたいな話なんか、誰も聞いてくれませんでした。


 1859年、34歳の時、今度はもっと調査をして、詳しい資料をもってワシントンDCに行きました。その時には法案に提出するというところまではいったのですが、通過はしませんでした。

 それで、彼は各地で講演活動を始めたのです。話を聞いてくれるところがあれば、どこへでも出かけました。草の根運動ですよ。

 人々からは妄想狂の「クレージー・ジュダ」と言われました。

 そんな人の言うことなんか、気にしないでね、と私が慰めると、彼はうんと頷きました。夢は捨てないで、続けることが大事なのだねと笑いました。私はそんな彼が大好きでした。


 サンフランシスコに近いサクラメントという町で講演をした時のことです。ハンティントンという商人が来ていて、講演の後で近づいてきて、もっと話が聞きたいと言ったのです。主人はようやく話のわかる人に会えたと大喜びでした。

 それからの展開は驚くばかりです。ハンティントンという人は他の商人仲間と会社を作り、鉄道建設へとすぐに動き始めたのです。


 ビジネスをする人というのは、やることが速い、すごいと思いました。彼らにはより説得力があったのか、コネがあったのか、彼らは主人にはできなかったことを次々とやってのけのました。

 翌年には法案が通過、リンカーン大統領がサインし、1863年には、工事がスタートしたのです。


 東のネブラスカからユタ州まではユニオン・パシフィックという会社が、西のサクラメントからクラメントからユタ州までは4人組のセントラル・パシフィックという会社が受け持ちました。

 大陸横断の鉄道が、ユタ州で、ひとつにつながるという計画です。

 主人はセントラル・パシフィック鉄道の主任技師になりました。

 主人の夢が現実に向かって動き出したのです。私は幸せでした。

 

 でも、幸運だと思っていたことが実は不運のもとだったり、幸せなことが不幸の始まりだということはよくありますよね。主人の場合も、そうでした。

 

 鉄道の仕事が開始して間もなく、4人組は主人の設計図や意見を無視して仕事をし始めました。ダイナマイトでやたらと自然を破壊して工事を進めるやり方に主人が大反対したので、彼の存在が邪魔になったようです。目の上のたんこぶでした。


 鉄道建設には政府からの助成金、土地の無料提供など、いろいろな恩典がありました。助成金にしても、山や丘に鉄道を通すことにすると、平地の何倍ものお金が出ます。ビジネスマンはお金儲けが専門ですから、地図に勝手に、山や砂漠を加えて、申請します。彼らは儲かる鉄道を作りたいわけです。

 でも、主人は自然と共存するよう、工学的に優れた美しい鉄道を作りたかったのです。


 だから、助成金を少しでも多くもらうために、設計図を書き換えることなんか、言語道断です。彼は何度も抗議したのですが、聞いてもらえず、耐えられなくて、仕事を辞めました。

 まだ工事が始まったばかりでしたので、主人は自分の考えに賛同してくれる人々から資金を集め、4人組から会社を買い取り、理想の鉄道を敷きたいと思ったのです。


 彼は東部に戻る途中、パナマで雨に濡れて病気になり、ニューヨークについて2週間、高熱にうなされたまま、私の腕の中で、息を引き取りました。まだ37歳でした。


 こんなことがあっていいのだろうか、と私は4人組を恨みました。

 ユタ州までの鉄道が完成したのはそれから6年後でした。鉄道で東西がつながり、国がひとつになったと、国中が大砲を鳴らして、お祝いしました。

 

 一番初めに走った汽車は「スタンフォード号」という名前でした。

 主人の名前はどこにも、枕木1本にすら、つけられることはありませんでした。

 私はお祝いのニュースをニューヨークの自宅で聞いていました。新聞記者がやってきて感想を聞かれた時、私はこう答えました。

 主人の姿は誰にも見えないし、声も聞こえないでしょう。でも、彼の精神は私の中に生きているし、私達は今、一緒に、そこにいるのですよ、と。

 

 私もお祝いをしました、もちろん。

 だって、その5月10日というのは、私達の結婚記念日なのですもの。

 朝から晩まで、心も身体も、鉄道のことにあんなに夢中だったあの人。あんなにがんばっていた顔を思い出したら、泣いてしまいました。一度泣いたら、涙が止まらなくて。


 あれから、4人組は信じられないような富を得て、それぞれの人生を終えたと聞いています。どんな人生だったのかは知りませんが、幸せな一生だったのでしょうか。

  業績、名声、財産をたくさん残した人が幸せでしょうか。

  そうではなくて、幸せとは、夢があり、それを追い求め続けた人だとは言えないでしょうか。

 そういう意味では、主人も、私も、幸せな人間だと思います。



                *



 サンフランシスコには「ジュダ」という名前のついた通りが、目だたない西南の端っこのほうにある。


ある春の日、私はそのジュダ・ストリートを訪ねてみたくなった。

 マーケット通りから地下の電車に乗ると、途中から電車は地上に出る。ゴールデンゲート公園近くの九番アベニューを過ぎたところから、ジュダ通りが始まる。


  ピンク色の大きな教会が見えたと思ったら、後はまったく見所がない殺風景な通り。庶民的な家々が、時には中国語が書かれた建物がひっそりと並んでいた。ジュダ通りにはいって15分も経つと、2両続きの車内には私しかいなくなった。

 

 そのうちに、電車ががたんと止まったまま動かないので、運転手にここが終点ですかと尋ねると、5メートル先を指さし「すぐそこ」と言った。それならと座っていると、「ここで降りて歩いたほうが早いよ」と。

そうなんですか。ここの電車はそういうのなのか、と下りることにした。線路を振り返ると、短くて、とても寂しい通りだ。

少し進むと、「ジュダ通り」という標識があり、その上に「エンド」と書いてあり、ここでおしまいなのだとわかった、

 乗ってきた電車がユーターンして、戻って行った。

 

 少し歩いていくと、砂になり、何という草なのだろう、浜茄子の親戚のような草が、売れない八百屋の店先にあるしおれた菜っ葉みたいに力なく横たわっていた。

 ここらあたりはスノイープロバー(シロチドリ)という聞いたことのない鳥の保護地域だという看板が立っていて、犬には紐をつけよと書いてある。犬に食われたチドリがたくさんいたのだろうか。

 

 私の前にあるのは、灰色の砂の丘。雨で濡れたのか、水分を吸って重くなっている足に力をいれて、よいしょ、よいしょと登った。

 その砂丘を超えた時、久しぶりに驚いた。

 別の顔をした海が、不用意に現われたから。

 先に海があるのはにおいでも感じていたはずなのに。相手が向かってくることがわかっていたの、お面を取られしまった剣道士のようだ。なにをぽかんとしていたのだろう。


 目にはいってきたのは、青い色をしたパシフィックの海、太平洋だった。

 灰色と水色が混じったような青い海の色。空の色は、もっと暗く、雨が降りそうだ。

 鉢の土に水をやった後の砂浜には、人の丸い足跡が残っている。

 曇ったレンズから見るように霞んでいる地平線の向うは日本だ。

 冷たい砂に座って、じっと地味な海を見た。

 

 うん、いいな、ここはいいな、という思いがじわじわと湧いてきた。

「ジュダの海」、

 私は勝手に名前をつけた。今日から、ここは私のお気に入りの場所。


 これは私がはじめてメトロのジュダ線に乘ってオーシャンビーチに行った時に書いたものである。

 それからは数えれないくらい行っている。いつもひとりの海だった。


 でも、パンデミックの頃から、サンフランシスコのダウンタウンが危険なところになったせいで、郊外のこの海に来る人が増えた。

 今では週末になると、ジュダの海にはたくさんの人が来るようになっている。


 

  

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