リーバイスの発想の転換
今日はジーンズで有名なリーバイさんの話です。
以前は、サンフランシスコのユニオン・スクエアの角に、「リーバイズ〈Levi's〉」のお店があり、大きな赤い看板が出ていたのですが、数年前に移動し、今そこにはアップル・ストアがはいっています。
本部はリーバイスプラザと呼ばれるコイト・タワーの麓、エンバカデロ(湾岸」に近いところに移りました。その庭には大きな石の滝や小川があり、それは採掘現場を再現しているのだそうです。
リーバイは発掘現場で働く人々のためにジーンズを作ったのが成功のきっかけなので、その原点を忘れないように、子孫がこのようなデザインを考えたのだそうです。 また店内には古いジーンズがずらりと展示されています。
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今では、世界の若者だけではなく、年配者もはいているジーンズは、サンフランシスコで生まれた。
それを考えついたのは、リーバイ・ストラウス(levi Strauss, 1829-1902)という人 だった。ただ、彼は最初はズボンを作るなどという考えは全くなく、これが苦肉の策として産まれたというのだから、人生はわからない。
ここにも、また不運をチャンスとした人間のサクセスストーリーがある。
彼はバエイルン(今のドイツの地方)の生まれのユダヤ人。バイエルンは、ビッグ・フォーの後で書こうとしているスートロという人の出身国の隣りの大公国。
リーバイは16才の時に父親を亡くし、彼が行商をして、一家を支えることになった。でも、ユダヤ人だし、税金は高いし、生活が困難になり、母や姉妹を連れてニューヨークに来たのである。このあたりはスートロによく似ている。
彼の母親は後妻で、ニューヨークには、異母兄達がいたのである。
ニューヨークのロー・マンハッタンにはたくさんのドイツ系ユダヤ人々が暮らし、異母兄達も、繊維関係のビジネスでそれなりの成功を収めていたのだった。
リーバイはニューヨークには数ヶ月いただけで、ケンタッキーの叔父のところに行くことになった。カーボーイになって、独立したかったようだ。
彼は母に仕送りもしなければならなかったので、カウポ-イ修行をしながら、異兄のところの商品をカバンにつめて、40キロの荷物を背負い、家を一軒一軒訪ねてあるくような行商をしたのだった。とても働き者だった。
だんだんと英語もうまくなり、名前の呼び方もレーブから、アメリカ人が発音しやすい「リーバイ」に変えた。
1853年にアメリカ市民権を取ると、心気一転。パナマに寄らず、ニューヨークから船でいっきにサンフランシスコに行こうと決めた。(パナマ運河がなかった時代、パナマの東側から西側に行くのがどのくらい大変だったのか、それは後のスートロの手紙のところに出てきます)
姉が結婚して、サンフランシスコに店を構えていたこともあるが、私(筆者)はこのあたりで母親が亡くなったのではないかと考えている。
新しい土地での独立、成功を夢見て、24才の若者がやって来た。
時はゴールドラッシュだった。
ニューヨークから船でサンフランシスコまで来るのに、3ヶ月もかかったそうである。船は高いが、たくさんの荷物を持って来られる。
リーバイは歯ブラシから針や糸、ツルハシ、スコップ、下着に布地などを持って到着した。
当時はお金はあっても、物がない時だったから、何でも飛ぶように売れたのだ。
彼はそこで、デニム生地で、鉱山用のテントを作って売ろうと考えた。なにせ、人が多いのに、住居がない時なので、これはよいアイデアで必ず儲けが出るはずだった。
それで、生地をたくさん仕入れた。
すると、計画通りに、全部売れたのだった。
やったーと喜んだのだが、やはり、人生はそんなにうまくはいかない。
カリフォルニアに珍しい大雨がきて、デニム地のテントは雨漏りがしたのだった。
デニムはテントには不向きだった。どうしてくれるんだと荒っぽい男達からすごまれて、怖い思いをした。そして、大量の布が返品された。
大量の返品された布の山を見て、リーバイは途方にくれた。ところが、ここで「その時、歴史が動いた」のだった。
その時、リーバイが思いついたのは、その布地でズボンを作ることだった。
鉱山ではスボンがすぐに破けてしまって、作業員がほとほと困っていたのだった。
それで返品されたテント生地でズボンを作って販売したら、強くてよいということで、大好評だった。
鉱員、カウボーイ、労働者の間で、その人気はまたたくまに広がったのだった。
スボンを細身にしたのや、虫がつかないように藍でブルーに染めたことなどは、リーバイのカーボーイ時代の経験が活きたようである。
さて、ネバタのリノに、リーバイのジーンズを仕入れて売っている男がいた。ジャコブ・デービスというユダヤ系の人物である。
お客の鉱員達が、ポケットに金塊をいれたりしてすぐ破けるので、それをよく修理していたのだが、そのうちに、ポケットの端に銅製の鋲(リベット)をつけて強化することを考えた。
そうすると破けにくくなり、なるほどよい考えだと彼は思ったのだ。
ジャコブはその特許を取りたかったのだが、申請する資金がないので、リーバイに手紙を書いた。
リーバイはそれを読んでよいアイデアだとすぐに採用、1873年に特許を取った。それが今のリベットのついたリーバイス・ジーンズのはじまりである。
ジーンズははじめは労働者の仕事着だったが、その後、映画でジェームス・デーンなどの若者達がはいたりして、若者に大人気。ジーンズをもっていない若者はいないほどである。
ジーンズという名前は、イタリアのジェノヴァ(Genova)がジーンズ(Jeans)になったと言われている。ジェノブァから来た船員が、似たようなズボンをはいていたので、「ジェノヴァの」が、「ジーンズ」になったらしいということである。
でも、リーバイさんはジーンズと呼ぶのが嫌いで、いつも「オーバーオール(Overall)」と呼んでいたそうだ。
彼は一生独身で、家族を持たなかったが、その分、サンフランシスコ市のためにも、ユダヤ人のためにも大いに尽くした。
大金持ちになってからも、人々には「リーバイ」と名前で呼ばせ、いつも正装に山高帽、とても温厚な紳士だったと言われている。
バイエルンを去り、船でアメリカに渡ってきた時、こんな成功が待っているとは、リーバイ少年は夢にも思わなかったことだろう。
彼が亡くなった後、姉の息子たち、つまり彼の甥が後継者になった。彼らの苗字はハースで、今でも、ハースファミリーがリーバイスの会社を経営している。
ハース一家はサンフランシスコでは有名で、表には出てこないが、この一族はさまざまな慈善活動をしている。
気をつけていると、散歩中に、意外なところで、ハースという名前が小さく書かれた展望台とか公園などが見つかる。
2014年に、サンフランシスコの南サンタクララに「リーバイス・スタジアム」がオープンし、NFLのサンフランシスコ・ファーティナイナーズが本拠地として使用している。
フォーティナイナーズとは「1849年の人達」という意味で、この1849年に、金塊を求めて、世界中からたくさんの男達がサンフランシスコに上陸したのだった。その彼らはジーンズをはいてくれた。
だから、ファーティナイナーズのために、リーバイスが球場を提供することにしたのは、もっともなことだと思うのである。恩を忘れていないね。
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