クロッカーと棺桶の呪い

 次のビッグ・フォーは、チャールズ・クロッカー(1822-1888) 。

 

 彼はニューヨークの生まれで、10歳の頃から働き始め、23歳で鍛冶屋として独立した。

そして、やはりゴールドラッシュの話を聞いて、カリフォルニアにやって来た。金は掘ってはみたものの見つからないので方向転換、サンラメントで衣料雑貨の店を出すことにした。そこで同じ町で店をやっていたハンティントンに誘われ、スタンフォードやホプキンズとともに、大陸横断鉄道の事業に参加することになったのだった。


 クロッカーが受け持った仕事は現場監督だった。過酷な山を削るのには、どうしてもたくさんの人手が必要だった。東部での鉄道作業に携わったのは貧しいアイルランドからの貧しい移民だったそうだが、西側の労力源は中国人だった。


 クロッカーはチャイナタウンの危険な闇組織と組み、中国から1万5千人の労働者を調達したのだった。その中国人移民はクロッカーに忠実で、どんな指示にも従ったので、「クロッカーのペット」と呼ばれていた。悔しいね。

  

 当時は安全性が危ぶまれていたダイナマイトだったが、クロッカーはそれをばんばんと使った。そのために犠牲者も多く出たのだが、問題としてとりあげられることはなかった。中国人が人を殺せば罪に問われたが、白人が中国人を殺しても罪にはならない時代だった。


 クロッカーは予定よりも数ヶ月も早く仕事を終らせたのだった。

 彼は体育系の顧問のようなタイプ(と言ったら、叱られるかしら)で、熱中型、ワンマン、自分に従わない人間には我慢ができない性格だった。

 

 その性格が顕著にでているエピソードに「棺おけ事件」というのがある。

 

 クロッカーはノブヒルに家を建てる時、周囲の家を全部買収したのだった。その跡が、今のグレイス大聖堂なのだから、彼の屋敷はワンブロック全部という広さだった。


 サンフランシスコには丘が多い。しかし、交通手段ができるまで、丘の上には貧乏な人々が住んでいた。

 けれど、ケーブルカーが引かれてから、お金持ちが集まってきたのだった。


 現在のケーブルカーは市営だが、当時はたくさんの私営のケーブル会社があった。

ノブヒルのカリフォルニア・ストリートにケーブルカーを引いたのは、前出のスタンフォードだった。4人の中で、一番先にここに土地を買い、家を建てたのも、彼だった。治安がよくて、眺めがよい丘の上。そして、ダウンタウンまでも、近い。


 次に、ハンティントンとクロッカーがスタンフォードを見習うように、通りを越した斜め向かい側に土地やら家を買った。あまり家に興味がなく借家に住んでいたホプキンズだったが、結婚することになった時、スタンフォードから土地を分けてもらい、それで4人組がそろってノブヒルに住むことになったのだった。


 クロッカーは他の誰よりも大きくて、一番豪華な屋敷を建てようと思った。それで、周囲の土地を買い集めたのだが、お金にものを言わせたから、それは難しいことではなかった。ただすぐ隣りの小さなボロ家を除いては。


 隣りに住んでいたのはニコラス・ユングというドイツ系の男で、仕事は葬儀屋だった。ユングはプライドが高く、頑固で、家をなかなか売ろうとはしなかった。

 それでも、クロッカーはお金を積めば買えると思っていたから、楽観視していた。

 

 今度はかなり上乗せをし、これなら軽く承諾だろう。クロッカーはそう思って交渉した。

 ところがユングが、「この額なら売ってもよかろう」と示した額は、クロッカーが提示した額の30倍だった。


「なんでもそれは高すぎるだろう」とクロッカーが言った。なんて欲張りなやつだ。

「それなら、売らない」とユングが言った。

「よかろう」

「それなら、こちらもそれでよかろう」


 クロッカーは自分が思うようにことが進まないことに腹を立て、ユングはクロッカーの態度に、臍を曲げた。


クロッカーはユングの土地は諦めて、有名な建築家アーサー・ブラウンという著名な建築家に依頼して、町で一番背が高い屋敷を建てさせることにした。

 いよいよ建築が始まった。


 しかし、目障りなのはユングの家である。

 これがないと、どんなによいことか、とクロッカーは歯軋りをした。

 それで再交渉したのだが、日ごろのクロッカーのでかすぎる態度がユングをますますかたくなにさせていて、

「おまえに売る気など毛頭ない」

 とユングは断った。


 頭に血がのぼったクロッカーは、ユングの家の周囲三方に、南の玄関側だけを残し、13メートルの壁を作った。


 人々はそれを「いやがらせの塀」と呼んだ。

 意地を張り合うふたりの親父、これが長屋で出来事なら落語の話なのだが、その写真が残っているから本当に起こったことなのだ。(写真を近況のノートに載せます)


 いやがらせの塀のお陰でユングの家は昼間でも真っ暗になった。今ならパワー・ハラスメント、日照権の問題で裁判沙汰だろう。

 

 しかし、ユングだって負けてはいなかった。がんばれ。

 自分の屋根に3メートルの棺おけを立て、それを骸骨で飾って、クロッカーの家に向けて置いたのだった。


 これは町の人々の話題の的になり、たくさんの人がその塀を見学するために、はあはあと荒い息をしながら、急な坂を登ってきたのだった。ダウンタウンからは登り坂が続くので、私がスニーカーをはいて歩いても、大体30-40分くらいかかる。


 そのうちにどこで折り合いがついたのか、ユングの家はクロッカーに買い取られた。塔のついた大邸宅ができあがり、担当した建築家のアーサーはこれを「初期のルネッサンス」と呼んだが、当時人気建築家だったウィリス・ポーク(1867-1924)は「木工の精神錯乱」と評した。


 クロッカーは鉄道仕事の後、カリフォルニアをワインカントリーにするのにも貢献したり、息子と組んで銀行なども設立した。

 しかし、ニューヨークで車の事故にあい、それから急に身体が弱くなり、66歳で亡くなった。

あんなにエネルギッシュだった彼が、そんなに早く逝ってしまうとは誰も思っておらず、サンフランシスコの人々は、あれは「棺桶の呪い」だと噂した。


 どうしてユングが家を手放すことにしたのかという情報を探していた時、古い本の中におもしろい記事を見つけた。


 それはその塀を実際に見たというある庭師がいて、その庭師から直接聞いたという人が書いたものなのである。

 それはこんな話である。


その頃、サンフランシスコには、デニス・カーニーというアイルランド出身の政治家がいて、一部の貧乏な人々から強烈に支持されていた。

 カーニーは闘争心が旺盛で、その舌は辛らつで、過激だった。当時はダウンタウンの至る所に失業者があふれ、教会が用意する無料の食事の前には長い列ができていたのだ。なにか今と変わらない気もするのだが。


 カーニーはその貧困の原因を「中国人」のせいにした。これも、アジアンヘイト問題が起きている今と似ている。

 

 カーニーは中国人がいるから、白人に仕事がないというのである。

 カーニーは「中国人は帰れ」運動を繰り広げた。彼には政治のポリシーがあるというよりも、何でも攻撃するのが好きな男だったのだ。しかし、彼に同調する者がいて、中国人の経営する洗濯屋が襲われたり、殺された人も出た。前にも書いたが、中国人を殺しても、罪にならない恐ろしい時代なのだった。


 1877年の10月29日、いつものようにカーニーはシティホール前の広場で、集会をしていた。

「中国人は帰れ」

 しかし、その日の彼は演説を始めると、ある方向を指をさして、叫んだのだ。

「敵はノブヒルだ」


 攻撃の矛先が、中国人から、ノブヒルの金持ちに変わったのだ。

 カーニーはノブヒルの金持ち連中も気にくわなかった。中でも、鉄道工事のために、たくさんの中国人労働者を連れてきたクロッカーが、大嫌いだった。


「クロッカーの屋敷を壊せ」

 とカーニーが叫んだ。

 そうだ、そうだ、と300人ほどの民衆が雄叫びを上げた。


 彼らは坂を上がって、「いやがらせの塀」の前に集まった。これが金持ちが貧乏人を苛めている証拠だと言って、その塀をゆすぶった。


 彼らはユングの味方ではあったのだが、ユングは何をやるかわからないこの狂信集団が恐ろしくて、暗い家の中でがたがたと震えていたのだという。


 しかし、民衆には理性が残っていたのか、腕力がなかったのか、警察に阻止されたのか、詳しいことはわからないが、塀はぐらついたものの、倒れはしなかったし、クロッカーの屋敷が壊されることはなかった。


 ユングが家を売る気になったのは、このカーニー騒動のすぐ後だということである。


            *


 カーニーのやったことって、トランプ前大統領がやったことと似ていますよね。同じDNAなのでしょうか。

 




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