カリフォルニアに輝く星 スター・キングの人生


 ゴールドラッシュにより急激に人口の増えたサンフランシスコの町は、すでに19世紀末には-墓地だけではなく、人が住む土地も足りなくなっていました。

その解決策として、墓場を移動させようという都市計画案が出されて、1920年から町中の墓が掘り起こされ、コルマという町に運ばれたのです。


 そのことは前に書きましたが、しかし、個人の墓として残っているのが1基あるのです。

 それが「スター・キング」という人の墓です。


 墓の大移動の時に、この墓だけはもとあった場所からジャパン・タウン近くのユニテリアン教会の前庭に移され、サンフランシスコ市に残されました。

 

 屋根が三角の石棺と、おかっぱ頭のスター・キングが黒人と白人の子供を抱いている彫刻像は、通りからよく見えます。また横には「スター・キング・ウェイ」という名前のついた短い通りがあります。


 私が今回、さいごに取り上げるのは、そのスター・キングという人です。

 

 今では忘れられた存在ですが、スター・キングは人類愛、自然愛に溢れた人物、彼ほど善良で、理想に向かい一生懸命に生きた人はいないのではないかと思います。


 スター・キング(Thomas Starr King 1824-1864)は、あのスタンフォード大学を創立したリーランド・スタンフォードと同じ年です。しかし、スター・キングは39歳までしか生きられませんでしたが。


 彼が亡くなった時、サンフランシスコ市は3日間喪に服し、船が旗を半分下ろして、弔意を表しました。


 そんな愛され尊敬されたスター・キングとは、いったいどんな人だったのでしょうか。

  

 

             

   *




 スター・キングはユニバ―サリストの牧師を父親として、ニューヨークに6人兄弟の長男として生まれた。やがて家族はボストンに移ったが、父親が早くに亡くなったため、スターは15歳の時に学校を続けることができず、家族を養うために造船所の事務員になった。


 彼は「学校には行かなかったが、必要なことはすべて造船所で学んだ」と言っている。彼は哲学や文学を独学し、4カ国語が話せた。またハーバード大学などの学生たちとの勉強会に出たりしてリーダー的な存在になり、20歳の時に、ボストンの教会に招かれて説教をし始めた。


 教会での彼の演説はすばらしく、すぐに信者が5倍に増えたという。その評判を聞いて、さまざまな教会から頼まれて講演をするようなったのだが、どの教会にも人があふれたのだった。

 彼の演説を聴きにくる人々の中には、大学教授など知識人が多くおり、彼は25歳の時に、ハーバード大学から名誉学位を与えられた。

 彼は150センチの童顔だったが、その説教は理論的で説得力があり、またおもしろく、その声は魅力的で、人々の心を揺さぶったのだという。


 スター・キングが何を語ったのかというと、「神を信じると救われる」というような内容ではなくて、「生きているということが宝であり、どんな人間でも、みな愛されている」ということだった。


 その評判を聞いて、サンフランシスのユニテリアン教会が彼を招いた。1860年、彼が36歳になる年のことである。


彼はユニパーサリスト教会の牧師であり、ユニテリアンはライバルの教会だった。

しかし、彼はその違いについてこう言った。

「ユニバ―サリストは、神は、馬鹿な人間にはもったいない存在だと考える。一方、ユニテリアンは、人間は、神から馬鹿にされるには善良すぎる存在だと考える」


 意味があまりよくはわからないが、そんなことは問題じゃないと言うことなのだろう。このふたつの教会は、今ではひとつになっている。


 その頃、米国では南北戦争が始まろうとしていた。

 南部が合衆国から独立しようとしていたのである。

 時にイギリスでは産業革命が起こり、南部の綿花は多く外国に輸出されていた。しかし、北部でも、その綿花は必要なのだった。 

 

 大農場を抱える南部では外国に輸出したいから自由貿易を望んだが、北部では政府が介入する保護貿易を進めてほしかったのだった。

 そこで、北部と南部の間で衝突が起きたのである。

 

 また北軍は奴隷制度の廃止を主張したが、南部の農場には当時400万人という数の奴隷がいて、奴隷を解放すると綿花農場はやっていけなくなるのだった。だから、南部は奴隷解放には反対した。


 カリフォルニアでは依然として、南部の農場主に同情する者が多かった。

 共和党の議員フレデリックが中心になり北部支援を唱えていたが、前年の1859年に、テキサスに味方でディビット・テリーと決闘で撃たれて死んだ。

 フレドリックを哀れむ声はあったものの、それが大きな流れにはなっていなかった。

 

 そんな時期に、スター・キングがサンフランシスコに到着した。

 あまりの小さくて童顔の彼に、関係者はこれが評判の人物なのかと驚いたのだが、

「自分は54キロしかないけど、怒ると1トンになるよ」

 と彼は言った。

 

 スター・キングが訴えるところは、貿易の利益がどうのということではなく、「奴隷を解放すること」、

 それは人間はみな同じだからである。


 彼は教会近くの公園で演説を始めた。

 その時、近くの公園とはユニオン・スクエアのことで、当時の教会のすぐ目の前にあった。


 ユニオンとは連合軍つまり「北部」の意味で、スター・キングはそこで「奴隷解放」について演説したのだった。


 その日のスター・キングの演説は画期的なもので、終わるのを待って、3回も大きな喝采が起きた。

 彼は人間愛、自然愛を訴え、日々に彼に賛同する人々が日ごとに増えていったのである。

 彼はサンフランシスコだけではなく、カリフォルニア州の町々を演説して回り、奴隷解放を訴え、負傷兵のための衛生局(アメリカ赤十字の前身)のために募金活動をした。

 

 南北戦争は1861年から1865年まで続いたが、事実上終了のちょうど1年前の4月、スター・キングは肺炎により死んでしまったのだった。働きすぎだったと思われる。


 リンカーン大統領はカリフォルニアが北部に残ったのは、スター・キングに負うさころが大きいとその働きを称えた。



              *


スター・キングの功績を大きくまとめると、

(1) カリフォルニアが北軍に加わったことによる奴隷の解放

(2) ヨセミテ公園の保護

(3) 負傷兵へのケア

 ということになるでしょう。



 さて、首都ワシントンには議事堂内国立彫刻ホールというのがあり、州に貢献した人物ふたりずつの銅像が置かれている。ひとりが最初の伝道師フニペロ・セラで、もうひとりがスター・キングでした。


 しかし、2009年、アーノルド・シュワルツェネッガーが知事の時に、その像が「レーガン大統領」に置き替えられてしまったのでした。

 議会ではわずか数分で可決されたそうです。


セラ神父はキリスト教に改宗しないインデアンに残虐行為をした人なので、なぜ、彼が残り、スター・キングが替えられたのかと思うのですが、今ではスター・キングが誰なのか、知っている人がほとんどいないからでした。



 ここにスター・キングがいたとしたら、何というでしょうか。

「歴史とはそういうものだよ」

 と言うことでしょうか。


「肝心なのは、人間がみな平等だということ、自然が守られているということ、病気の人が治療を受けられることだよ」

 と。


            ーーーーーーー


さて、ゴールデンゲート公園の中には、30以上の銅像が立っています。その中に、デ・ヤング美術館の近くに、スター・キングの像があります。

 それを近況ノートにアップしますが、この像はたぶん、公園の中で一番大きな像ではないかと思います。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る