サンフランシスコを作った男(1) ウィリアム・ラルストン

 今回から、ウイリアム・ラルストンという人の話を始めます。


 彼はサンフランシスコ初期の人で、「サンフランシスコを作った男」と呼ばれています。

 サンフランシスコ初期というのは、この町がサンフランシスコとして誕生した1848年から、大地震で町の大半が崩壊した1906年までのことを言います。


 この青年はサンフランシスコにくる前から、「サンフランシスコをすばらしい町にするのだ。そして、世界一のホテルを建てるのだ」

 と心に決めていたのです。


 ラルストンは私の推しです。


 

               *



 サンフランシスコの背骨にあたる通りというと、マーケット・ストリートである。ここをカラフルな古い電車が行き来している。そのマーケットとニューモンゴメリー・ストリートの角に、「パレスホテル」が建っている。

 

 ニューモンゴメリー・ストリートは電車線路を挟んで、モンゴメリー・ストリートの斜め反対側にある。


 ストリートをどうしてまっすぐにしてモンゴメリー・ストリートという名前にしなかったのか。そのことを不思議に思う方のために書くと、パレスホテルが建つ前には、ニューモンゴメリー・ストリートの場所には大きな丘があって通りがなかった。


しかしある男が、そこにあった丘を崩し、新しい通り「ニューモンゴメリー・ストリート」を作ったのだ。

 丘を削って道を作り、ホテルを建てた男、それがラルストンだった。

 

 

 現在、町の有名ホテルを3つあげるとしたら、ノブヒルのフレアモント、ユニオンスクェアのセント・フランシス、それに、エンバカデロのハイャットホテルだろう。パレスホテルは、ベストスリーにははいらない。

  

 しかし、創業された時のパレスホテルは、世界一の規模と贅沢さを誇るホテルだった。

 だが、そのパレスホテルは、残念なことに、1906年の大震災で内部が焼け、取り壊されて、再建されたホテルはサイズが小さい。


 オリジナルのパレスホテルは7階建てで、部屋数は775室、バーテンダーでさえ30人もおり、「サンフランシスコに来たらパレスホテルを見よ」と言われていたくらいで、カリフォルニアの誇りと言われた。


 そのパレスホテルを建てたラルストンは、彼の伝記のタイトルにもあるように「不可能なことがない男」で、「サンフランシスココを作った男」と言われていた。

 


 初めてラルストンのことを聞いた時、そういう大人物だったのなら、なぜ、もっとその名前が知られていなのだろうかと思った。

 ビッグフォーやスートロのように、もっと名前が知られていてよいのではないかと。

 

 もしラルストンが自分の利益より、「サンフランシスコをすばらしい町」にすることを第一に考えていたとしたら、それはまるで宮沢賢治とグレイト・ギャツビーを合わせたような人間ではないか。そういう人って、いるのだろうか。

 それで、あれこれ調べていくと、いやいや、そういう人間が存在したことがわかった。

 

 ウイリアム・ラルストンはこの町を、世界中のどこよりすばらしい町にしたかった。そして世界一のホテルを建てようとしたのだった。

 それは、何のために。



 ウイリアム・ラルストン(1826-1875)はあの大学を建てたスタンフォードより2歳若い。


 彼は4人兄弟の長男としてオハイオ州で生まれた。少年の頃に母を失くし、働き始めたのが14歳の時で、初めは食料品店の店員として働き、次にミシシッピ川で船の仕事についた。荷物運びである。


 船に人や綿などの荷物を積んで、ニューオリンズからセントルイスへ行くのである。ラルストンはまっすぐな性格で、ウイットに富み、それに人の倍以上働いたので、周囲の人から好かれた。

 彼は運搬の仕事を覚えただけではなく、船の操縦も習い、やがて、キャプテンとしても船の舵を取るようになった。


 1848年に、ポーク大統領がサンフランシスコに金が見つかったと正式に発表したので、多くの男達が西部を目指した。翌年の1849年には10数万人が金を求めてカリフォルニアに到着したのである。


 23歳のラルストンも西部を目指したひとりなのだが、彼はパナマからすぐにはサンフランシスコには行かず、現地にとどまった。

  

 ラルストンはパナマからサンフランシスコへ人々を運ぶ仕事に就いたのだった。そこで、彼はミシシッピ時代から知っていたふたりの船長と再会した。


 ひとりは「コンボーイ」という船の船長だったガリソン、もうひとりは「メンフィス」号の船長だったフレッツである。

 ガリソンはもともと技師で、フレッツは商人、しかし、当時は船長の仕事も、事務も、銀行でも、なんでも兼ねてやっていたのだ。

 ラルストンは「ガリソンとフレッツ」という会社で働くことになった。

 

 彼は懸命に働いたから、わずか数年後には会社名が「ガリソとフレッツとラルストン」会社になった。つまり、ラルストンは共同経営者になれたのだった。


 ラルストンはパナマからサンフランシスコまでは客を運んで何度も往復していたが、サンフランシスコに移り住んだのは28歳の時だった。

 最初はガリソン達と組んで「ガリソンとモーガンとフリッツとラルストン」という銀行のような会社を作った。

 そして、約10年後に独立して、「カリフォルニア銀行」を創立したのだった。ラルストンは頭取になったのだ。


 銀行でラルストン自身が自らカウンターに立ち、信用がおけそうな客には担保なしでお金を貸したから、「人々のための銀行家」と呼ばれ、とても人気があった。彼はいつも穏やかに微笑んでいたそうである。

 

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