第90話 助けを求める手
ミチャはルノルノを大浴場に連れてきた。そこでルノルノに付いたクロブの汚らしい体液を洗い流す。
ルノルノはぼんやりと虚空を眺めていた。目は完全に死んだ魚のようだった。
三か月の苦労が、ほんの僅かな時間で壊される。
ミチャはやるせない気持ちでいっぱいになった。今のルノルノにとって、男達の獣じみた性欲は猛毒に思えた。
どうしたらいいんだろう……。
『お湯、浸かろ……』
ルノルノは小さく頷くと、二人並んで湯船に浸かった。
ミチャは三か月を振り返った。
思えば長かった。やってきたことと言えば馬術と剣術、トゥルグ語の勉強。この三つを毎日毎日繰り返した。
ルノルノは筋力が増すにつれて剣も鋭くなったし、ぶれなくなった。ジェクサー先生には力の差で負けてしまうことがほとんどだが、まれに勝てるようになってきた。恐らく技術ではほとんど互角になっているんじゃないだろうか。そういう自分もルノルノとはほぼ互角。十回戦えば四回から五回は勝てるようになった。ルノルノを成長させようと思っていたら自分も成長していたんだなと思う。
馬術はやっぱりルノルノとキルスは凄い。自分とアルディラも相性は良く、結構走れるようにはなったが、ルノルノのように自由自在というほどじゃない。早くルノルノと並んで走れるようになったらいいのにな、と思っていた。
トゥルグ語は難しい言い回しはさておき、そこそこ理解しているよう思える。発音は少し下手で舌足らず。発音と文法さえ気にしなければ日常会話程度なら結構話せるようになっていた。話せるはずなのに自分と二人だとずっとラガシュマ語を喋っていた。おかげでミチャ自身の発音はいつの間にかカルファ語とラガシュマ語の混ざった謎部族の言語になっている。
三か月かけて彼女を必死になって治そうと連れ回して、一緒になって頑張って、ようやく形になってきたのに……。
クロブのせいで何もかもが潰れてしまった。
あいつは悪びれていない。それもそうだ。ルノルノがウルクスの強力な呪縛に捉われていることを知らない。だからこの子を自分に隷属させようとする。
彼らにとっては何気ないことでも、こちらにしてみれば命取りになることを痛感する。
ミチャはそっと寄り添った。
『あったかいね』
何て声をかけていいか分からない。だから差し障りのないことを口にしてしまう。しかしルノルノは答えず、黙ってお湯をじっと見つめていた。
悲しむでもなく、怒るでもなく、虚無だ。
こういう時にユーラムがいてくれたら……。何て声を掛けるのが正解なのか教えてくれそうな気がする。
『そろそろ、上がろっか』
『うん』
ようやくルノルノが声を発した。するとそのままそっと手を出してきた。ミチャは少し意外に思った。手はいつも繋いでいるが、それは全てミチャの方から繋ぎにいっていたからだ。ルノルノの方から手を出すことはなかった。
もしかして何か変化があるのかと期待してルノルノの顔を覗き込んだが、それはなかった
脱衣所でふとルノルノの体からは痣はほとんど消えていることに気づいた。ウルクスの記憶も痣と共に消えてしまえばいいのに……。
そう言えばクロブはルノルノの操はまだ守られていると言っていた。ウルクスはルノルノを犯すことはなく逝ってしまったようだった。
つまり、結局ウルクスは彼女の心は蹂躙することに成功したが、体までは蹂躙出来なかったという訳だ。
ざまあみろと思う。
同時に情けないとも。
ルノルノは結局自分の身は自分で守ったということだ。
ミチャ自身は何もしてやれなかった。
心が少し軽くはなったが、それもルノルノ自身が足掻いたおかげであり、自分は全くの無力だった。
服を着終えたルノルノがまたそっと手を出してきた。ミチャはその手を引いて、自分達の部屋に戻った。
ルノルノは無言でベッドに潜り込む。ミチャもその後ろから潜り込んだ。
沈黙が流れる。
ルノルノの背はこんなに小さい。
抱き締めたかった。でも、何だか遠い。
彼女の心をまた傷つけて、苦しめてしまった。
底なし沼から引き上げている途中で手を離してしまった。
自分にルノルノを抱き締める資格はないような気がした。
その時、ルノルノがその沈黙を破った。
『ねぇ、ミチャ……』
『うん?』
『抱き締めてくれないの?』
ミチャははっとした。ルノルノの肩が震えている。
(抱き締めていいの?)
ミチャは恐る恐る手を伸ばして、背中からそっと抱き締めた。前に回した手に、ルノルノの小さな手が添えられる。
『ミチャ…』
『うん?』
ルノルノの声は少し涙声だった。
『私って、どうしたらいい?』
『どうしたらって……』
『自分でもよく分からないの』
ミチャは答えられなかった。
『クロブさんに触られた時、従わなきゃいけないって思った。奴隷の奴隷だから、そうするのが正しいことだって思ってしたの。でも、なぜかその時、ミチャの顔を思い出しちゃったの……』
かける言葉が見つからず、黙ってルノルノの次の言葉を待った。
『そんなこと考えるのは間違ってるのは分かってる。奴隷なんだから、ちゃんと従わなくちゃいけないのに……でも、分かってても、怖いの。従えば従うほど、自分が空っぽの器になっていくみたいで……何もかもなくなっていっちゃう気がして……』
ミチャは心が震えた。
三か月、この長い期間で一生懸命培って来たものが一瞬でひっくり返されたものと思っていた。ルノルノを捕らえていたウルクスの呪いはクロブの愚行によってまた蘇ったものと思っていた。
だがルノルノは底なし沼の淵ぎりぎりで手を外に伸ばしていたのだ。
その手を掴むため、ミチャは抱き締めている腕に力を込めた。
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