第84話 一進一退

 それからというもの、ルノルノの毎日のスケジュールが決まって来た。


 朝起きたらまずはキルスの世話だ。最初は見ているだけだったが、何日かすると段々見ているだけでは気が済まなくなって来たらしく、キルスだけは自分で世話をするようになった。もっともまだ馬に乗るということは出来ない。一緒について歩くだけではあるが、ミチャは良い兆しだと思った。


 朝食後はトゥルグ語や算術などの勉強だ。ちゃんと勉強し始めたのが最近とは言え、さすがに一年もトゥルグ語の中で生活していると耳慣れている。上達は速そうだった。また算術も意外に得意のようで、ラーマも驚いていた。


 午後からは剣術の練習。これを夕方までミチャと一緒に汗を流す。


 夕方になれば馬の世話をし、その後に夕飯、そして風呂という流れになる。


 風呂は主人の入る時間、男奴隷の入る時間、女奴隷の入る時間、全てばらばらなので、男奴隷達と顔を合わすことは基本的にない。ただ定められた時間以外に入ると混浴になることが多々あるので出来るだけ女奴隷の時間に入るようにした。


 裸の付き合いをしていると、女奴隷達は意外にもルノルノに同情的な人が多いことも分かった。誰もが性的搾取された経験のある者達で、ルノルノの境遇に立腹している人も多かった。これはミチャにとって心強かった。


 寝るまでの時間はラーマのところへ行って刺繍などの縫い物を習う。ミチャも試しにやってみることにしたので、今は一緒に行っている。


 そして眠くなったら同じベッドにもぐり、手を繋いで一緒に眠るのである。


 もちろんこのリズムは時々崩れることもあるが、概して二人きりの時間もたっぷり取れる比較的幸せな毎日と言えた。


 そして今日はラーマがラゼルのところに出向いているので、このリズムが崩れる日である。


 今ミチャはシュガルの朝風呂につき合っている。彼と肌を寄せ会いながら、ぼんやりと考え事をしていた。


 彼女の頭の中を占めているのはルノルノのことだ。


 ウルクスに洗脳されてはいるが、基本的にはルノルノの性格は変わっていないように見える。


 ミチャにとって何よりショックなのは、そんな彼女が刀を得るためとはいえ、色仕掛けでクロブに迫り、その欲望の捌け口に進んでなったということだ。


 あれだけルノルノを守ってきたのに、最後は守り切れなかった。


 きっとクロブは自分のことを嘲笑っていただろう。


 そして何より腹立たしいのは、ルノルノに騙された張本人であるにも関わらず、何のお咎めもなかったことだ。


 最近シュガルのやることには疑問が残ることが多い。


 本当にこのまま彼についていって大丈夫なんだろうかという気持ちも僅かではあるが芽生えている。



『悔しいなぁ……』



 隣にいるシュガルに分からないように、ミチャはカルファ語で呟いた。



「ん? どうした?」



「んーん、何でもないですよー?」



 いつもの明るい声を作ってシュガルに甘えてみせる。



「ねえ、旦那。あたしももう十七歳。あと一年で子作りしやすくなる年になります」



「そうだな」



「……来年か再来年、あたしに子宝を恵んでください……」



 シュガルはふんっと鼻で笑った。そしてミチャを抱き寄せ、その体を弄り始めた。



「その話だが」



「……はい」



「約束は出来ん」



「え……」



 ミチャはシュガルに縋り付くように抱きついた。



「そ、そんな……旦那様、あたし、何かしてはいけないことをしでかしたのでしょうか? あたし、旦那様に捨てられたら生きていけません! これからも一生懸命尽くします! 例え子供ができても、一生を捧げて旦那様に尽くすつもりです! だからどうか、どうかご慈悲を……」



 情けないと思う。これだけ彼に不満や疑問を持っているにも関わらず、彼に縋らなければ生きていけない自分が本当に情けない。だがそうしなければ、安穏とした生活が保証してもらえない。


 シュガルはにやっと笑った。



「その言葉、嘘じゃないな」



「はい! あたしの心と体は全て旦那様のもの! 旦那様に尽くしてこそのあたしです!」



「心配するな。お前は可愛いやつだ。俺の子を産ませてやる。そうすれば子が出来ないラーマよりもお前の方を可愛がってやるさ。それは約束してやる」



 その言葉にミチャは安堵の表情を浮かべた。



「はい! ありがとうございます!」



「だが来年、再来年は難しいかもしれん。お前にかなり働いてもらわねばならんかもしれんのだ」



「仕事……ですか?」



 発情した雌猫から、獲物を狙う女豹の顔になる。



「良い顔しているな。だがまだ詳しいことは言えんぞ」



 シュガルはミチャを無性に抱きたくなった。


 仕事が絡むとなるとミチャは殺し屋の顔になる。この殺し屋の顔が快楽に蕩ける瞬間を見るのがシュガルは好きだった。



「可愛がってやる。俺のベッドに来い」



 シュガルは風呂を出た。


 ミチャは嬉々としてその後を追った。








 昼になった。


 ミチャが部屋に戻った時、ルノルノは祈りを捧げている最中だった。窓から差し込む日光の中に浮かび上がった彼女の姿は神秘的で、美しかった。


 ミチャはしばし見惚れた。



「お帰りなさい、です」



 ミチャに気付いたルノルノは、祈りを止めてトゥルグ語でそう言った。



『あ……うん、ただいま。ルノルノ、ご飯持って来たよ』



 ミチャは帰って来るついでに昼食を調達して来たのだ。



「ありがとう、です」



 ルノルノはカルファ語のミチャに対し、もう一度トゥルグ語で答えた。


 

『はい、これルノルノの分。タントン無かったけど、クルギョがあったから持って来たよ』



 ルノルノは手を伸ばして受け取り、それを食べ始める。今ではちゃんと手を使って食べるようになった。


 そんな彼女の姿を見ると、ミチャは少し安心を覚える。


 少しずつだが改善しているように思えるからだ。


 しかしウルクスに対する想いは相変わらずだ。


 それがミチャには気掛かりだった。


 そういえばシュガルからは気になる話を聞いた。


 大きな仕事が入るかもしれない。詳細は教えてくれなかったが、抗争になりそうだということだった。そしてこうも言っていた。ミチャの腕が必要だが、ルノルノの力も必要になるかもしれない、と。


 ルノルノは脆い。自衛での殺人ですら錯乱状態に陥るぐらいだ。能動的に殺人を犯す暗殺業ではどうなるか分からない。だからシュガルに訴えた。



「ルノルノを旦那の愛人にしてあげてください。約束の一年は経ちました。あの子は殺しに向いてません」



 しかし答えは素っ気ないものだった。



「あいつはウルクスやクロブの手垢が付いた不潔な女だ。俺が一旦奴隷のものになった女を抱くと思っているのか? ルノルノに殺しを覚えさせろ。役に立たないのなら体を売らせる」



 こうなるとミチャがルノルノと一緒にいるためには、何が何でも殺し屋に育てるしかなさそうだった。しかし洗脳の解けないルノルノを殺し屋に育てることはほとんど不可能だ。



「ルノルノ。さっき何してたの?」



「お祈り、です」



「何を祈ってたの?」



 これ対してはラガシュマ語で答えた。



『家族の魂に愛を伝えるのと、アゴルさんの魂に謝罪を伝えるのと。そしてウルクス様の魂の平安をお祈りしていたの』



『そう……』



 ウルクスが死んでまだ二週間。彼のことはルノルノの中で美化され、神格化されているような気がした。



『ルノルノ……ウルクスのこと、好き?』



 するとルノルノは困った顔をした。



『奴隷だもの。好きって感情は持てない。でも、畏敬している、かな。いつも奴隷はどうあるべきか躾けて下さっていたから。このウルクス様が付けて下さった痣も、消えてしまうのが惜しい……』



 少しだけお腹を見せた。そこには段々薄くはなって来ているがまだ痛々しい痣が残っている。



『そっか……子供作りたかった?』



『うん……それが勤めだし……』



 ウルクスとルノルノの間に出来た歪な絆の間に、自分が入り込む余地は感じられない。



(どうして、あたしじゃだめなんだろう……)



 心が折れそうになる。ルノルノの肩をぎゅっと抱いた。



『どうしたの……?』



 ルノルノは食べかけのクルギョを横に置いて、ミチャの手に自分の手を重ねた。



『何でもない……自責、後悔、自己嫌悪ってとこかな……』



『……ねぇ、どうしてミチャは自分を責めてるの? 私にはその気持ちが分からない。ミチャじゃなくウルクス様を選んだのは私。ウルクス様に全てを捧げる気になったのも私の選択だよ』



『じゃあ、何でキスしたのよ……』



 ミチャの声は震えている。するとルノルノははっきりと答えた。



『あれは……間違いだった』



 ミチャは泣き崩れたい衝動に必死に耐えた。この泥沼から抜け出せる気がしなくなった。



(もう何をどうしたらいいのか分からない……)



 シュガルの残酷な命令、ウルクスの呪い、捨てられない恋愛感情。


 ミチャの中で色んな問題と感情が複雑に絡み合って、解けそうな気がしない。



(あたしが狂いたい……)



 それでもミチャはルノルノを抱いた手をどうしても離せなかった。

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