第80話 僅かな兆し

 調教からの隔離。


 要するにご飯はみんなとしなければいいだろうという訳で、今後の食事はミチャの部屋で摂ることにした。食事を一々運ばなければならないのは少々面倒だが、ルノルノのためなら仕方ない。



『手を使って食べてもいいんだよ。これ、タントン。ルノルノ好きだったでしょ?』



 ルノルノはそっとタントンに手を伸ばした。手が震えている。手を使って食べることが悪いことだと思っている証拠だ。



『手を使って食べることは悪いことじゃないんだよ』



『でも、私は家畜だから……。奴隷の奴隷は手を使って食べちゃだめだって……』



 それは違う、と言いたくなるのをぐっと堪える。否定はしない。肯定もしない。



『うーん、そうだね。確かに家畜は手を使わないね。でも、動物は手が使えないから使ってないだけだから。だから手が使えるルノルノはどっちでも良いと思うよ』



 本当にこんなのでいいのかな? と疑問が湧く。


 何より灰色の答えを用意するってのがこんなに難しい。今の答えだって灰色の答えかと言われれば微妙なところだ。どっちかって言うと論点をずらしただけの答えに思える。


 でも今はとにかく否定しないことが大事だ。無理に灰色の選択肢を用意しなくてもいいのかもしれない。とにかく全否定しない。全肯定もしない。軽い肯定を織り交ぜて、とにかく否定しない。それでいいということにしよう。


 ルノルノは手を使ったり使わなかったりした。何とか手で食べられたことだけを褒めてあげた。


 思ったより骨が折れる。だがルノルノのためだ、と思えば頑張れた。


 昼食後はトゥルグ語を教える。


 文法とかは教えられない。そういう難しいことはラーマの方が詳しい。自分に出来ることは普段の生活でよく使うフレーズと単語を教えるぐらいだ。ウルクスのせいで変な単語を覚えていたりするが、それはとりあえず置いておいて、日常よく使う言葉をまず教える。


 物覚えは良かった。意外にも言葉に関してはミチャの言うことはかなり素直に聞いた。



「おはようございます、こんにちは、さようなら、またね、ありがとうございます」



 ルノルノも復唱する。これぐらいの簡単な言葉なら、今のルノルノでも覚えてはいる。だが発音からちゃんと一から教えてあげる。辿々しいなりにも復唱出来る。



「頑張ってる?」



 ラーマがお菓子を持って勉強の様子を見に来てくれた。



「え、こんなお菓子……いいんですか?」



「いいわよ。その代わりみんなには内緒よ? 特別扱いしてるって思われるのもだめだろうし」



 するとルノルノがトゥルグ語で言った。



「ありがとう、です」



 ミチャがルノルノの頭を撫でた。



『そうそう、そんな感じでどんどん使っていこう』



 ラーマも同じように頭を撫でてあげる。



「もっともっと話せるようになればいいわね」



 二人に頭を撫でられ、ルノルノは少し俯いた。



(あれ? 照れてる……?)



 ミチャは少し期待して覗き込むが、ルノルノの顔は無機質のままだった。


 しかし何となく手応えのようなものを感じる。そうだ、きっとこういうことだ。こういうのを続ければいいんだ。


 ミチャは手探りでもいいから一つ一つこなしていこうと思った。分からなくなったらユーラムに助けを求めよう。彼ならかなり力になってくれる。


 夕方まで勉強を教えていたらキルスのご飯の時間になった。



『ねぇ、ルノルノ。キルスのご飯の時間だけど行かない?』



 例え断られてもいいから誘ってみる。しかしルノルノは首を縦に振らなかった。








 一人で裏の馬場へ向かい、ユーラムに今日のルノルノの様子を報告する。



「ちょっと手応えある気がするよ。思ったより早く抜け出せるかもしれない」



「それでも気長に構えた方がいいっすよ」



 ユーラムはのんびりとそう言った。



「そう?」



「焦りは禁物っす。普通の人を騙すのも騙されてる人を普通に戻すのも裏を返せば原理は同じっすよ。こういうのって白って思ってる人間を正反対の黒って思わせる作業っすから」



 ユーラムが言うと妙に説得力がある。



「ねぇ、手伝って貰ってこんなこと言うのは失礼だと思うけど……ユーラムさんって、あたしらを騙してるってことないよね?」



 ユーラムはへらへらと笑った。



「ミチャさんを騙しても何の得にもならないっすからねぇ」



「それもそうか」



 ミチャは慣れないフォークを使って干し草を運びながら納得した。



「でも、それぐらい疑った方がいいっすよ。自分は騙されないから大丈夫っていう過信している人が一番騙しやすいっすからね。騙されているのかも? くらいに疑う方が世知辛いけど安全っす」



「……ユーラムさんも常に疑ってるの?」



「常にではないっすけど、美味い話を持って来る人には裏があるとは思ってるっすね」



「この奴隷達の中でもそういう信頼出来ない人っている?」



「信頼出来ないとまでは言わないっすけど、少し気をつけている人はいるっすね」



「誰?」



「クロブさん」



 ミチャは苦笑いした。ユーラムの目から見ても、彼はどうも胡散臭く見えてしまうらしい。



「……じゃあ、奴隷会とかどうしてんの?」



「あぁ、僕、参加したことないんっすよ。ほら、余計な人間関係出来ちゃうから」



 なるほど、ここにもレアな人がいた。確かにクロブとユーラムではお互い馬が合わなさそうな気がする。



「でも、そんな権力者の名前出して、あたしが告げ口するとか考えないわけ?」



「告げ口することでミチャさんに何か得なことがあるなら考えるっすね。でもシュガル様に愛されてるミチャさんが今更クロブさんに与する意味ないじゃないっすか?」



「本当に損得で考えてるんだね」



「それだけじゃないっすけどね。僕も詐欺から足洗ったんで。たまには分かり合えそうな人を信用しようかなぁって思ってるだけっすよ」



 ミチャはその言葉は信じることにした。

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