第71話 気高き刃

 ちょうどその頃、ルノルノは屋敷の中をうろついていた。


 前よりは自由に動けるようになった。というのも、シュガルが「トイレぐらい好きに行かせてやれ」と言ったからだ。もちろんルノルノのことを思って言った訳ではなく、家が汚れるのを極端に嫌がったからである。ただ、そうなると屋敷内をうろつくこともある程度は黙認されるようになった。


 しかし一人でうろついていると、時折他の男奴隷に体を触られることもある。もちろんウルクスのものであるという認識から無茶なことはしてこないが、それでも男奴隷達の格好の玩具であり、慰み物であることには変わりはなかった。


 特にクロブはよく触って来た。彼はウルクスよりも立場が上なので遠慮も少ない。奴隷会でも味見したがっていたので、尚更だった。


 この時、ルノルノは二階の右奥を歩いていた。右奥には玄関ホールとは別の一階に続く階段があり、そこを降りるのがトイレへの近道であった。


 要するに、トイレからの帰りである。



「おや、ルノルノじゃないか」



 途中声をかけられた。


 クロブだった。



「一人かね」



 周りを見回し、他に誰もいないことを確認する。そしてルノルノの後ろに回り込むと、抱きすくめてその感触を楽しみ始めた。いつものことである。



「散歩でもしとるのか。そう言えばウルクスは夜の番だったな」



 今夜の護衛はウルクスの番だ。つまり今夜、ルノルノは一人なのである。



「こんな良い女を一人にしておくなんて勿体ないな。お前の主人もなかなか焦らすじゃないか」



 ルノルノは小さく喘いだ。クロブの愛撫はいやらしくルノルノの体を攻め立てる。



「素直でいいな。奴隷会の時は生意気なミチャに邪魔されたが今のこの状況はさぞあいつも悔しいだろう」



 くっくっくと喉の奥で笑いながらルノルノの体を堪能する。


 その時足音が近付いて来るのが聞こえた。さすがに人前で淫らな行為を見せる訳にはいかないので、クロブはルノルノから離れた。



「あれ、クロブさんにルノルノ……何してるんですか? こんな暗いところで」



 まさにそのミチャだった。片手にはランプが握られており、その仄かな光がクロブとルノルノの姿を照らし出していた。


 クロブのにやけ顔を見て状況を察する。ミチャは胸にふつふつと煮え繰り返るものがこみ上げて来るのが分かった。



「あんまりこういうことしてると、ウルクスに言いつけますよ?」



「ははは。まぁ、何だ。これぐらいなら彼も目くじら立てんだろう。しかし、ミチャ、こんなところで珍しいな」



「仕事道具取りに来たんですよ。武器庫に」



 クロブは少し真面目な顔になった。



「そうか」



 しかし彼は去り際にミチャに囁きかけた。



「なかなか具合の良い娘じゃないか」



「……っ!」



 ミチャは殴りかかりたくなったが、ぐっと堪えた。


 勝ち誇った顔で去って行くクロブに悔しさを滲ませながら、ミチャは睨みつけることしか出来なかった。


 深呼吸を一つして気持ちを落ち着け、ルノルノの顔をちらりと見た。


 生気は感じられず、目は無機質になっている。完全に自我を殺された人間の顔だった。



『……なんか、久しぶりだね』



 実際は何回もすれ違ってはいる。シュガルの部屋付近にいればよくすれ違うし、食堂でも何回も彼女が床に這いつくばってみんなから餌を貰っているところを目撃している。ただ見かけても話す機会は全くなかった。



『うん、久しぶり……』



 無機質、無気力な声だった。ウルクスの調教が進んでいることを肌で感じる。元々耐性のない子だった。堕とすのに三か月も必要なかっただろう。



『……ルノルノ、こっちへ』



 ミチャは奥の階段からすぐのところにある扉の前に立つと、鍵を開け、ルノルノの手を引いて中に忍び込んだ。ランプを床に置いて、ルノルノと向き合う。



『どうしたの、ミチャ……』



『ルノルノとちゃんとお話したくて』



『だめだよ』



 ルノルノは目を逸らした。綺麗な横顔に痣はない。そこはウルクスの拘りなのかもしれない。



『だめじゃないよ。誰も見てないんだから……』



 ミチャはルノルノの横顔を見つめ続けた。それでもルノルノは僅かでも見ることはなく、目を合わせなかった。



『だめ……これは私の勤めだから……』



『ルノルノ……』



 抱き締めようとしたが、ルノルノは首を横に振った。



『だめ……』



 ようやく目を合わせてくれたが、そこに人間的な光はなく、無機質で、無表情で、冷たかった。


 お互いの気持ちに気づいた時にはもう手遅れだったことを改めて痛感する。



『そっか……』



 ウルクスの奴隷となってしまったルノルノに差し伸べる手はもうない。



『ごめん。惑わすつもりはなかったんだ』



 ミチャは溜息一つつくと、床に置いたランプを拾い、部屋の奥に入っていった。


 部屋の壁にかかっている燭台の蝋燭に火を灯していく。


 明るくなるにつれ、部屋の全貌が見えて来た。


 部屋の真ん中には大きなテーブルが置いてあり、四面の壁には棚が取り付けられてある。その棚や壁に多くの武器が置かれたり立て掛けられたりして、保管されていた。各種刀剣の他、弓矢、槍、矛、ハンマー系の武器までが置いてある。


 ミチャは一番奥の棚から一振りの半月刀と三本のナイフを取った。


 戸惑うルノルノにミチャは笑いかけて言った。



『ここは武器庫なんだよ。普段鍵がかかってるからね。あたしや旦那や用心棒じゃないと入れない部屋なんだ』



 ミチャはそれらの武器を真ん中のテーブルに広げて言った。



『あぁ、あとクロブさんも入れたっけな』



『……そうなんだ……』



『ルノルノ。あたし、明日から仕事なんだ。ちょっと離れたところまで行く。そんなにはかからないと思うけどね』



 ルノルノは沢山の武器を見て回る。扉近くの右の棚に、見覚えのある一振りの刀があった。安物の鞘に仕舞われているが、何の装飾もないシンプルな柄には見覚えがある。


 その刀にそっと持ち上げ、ゆっくりと抜いた。燭台の照らす薄明かりの中、その刀身は気高く光り輝いて見えた。



『お……父……さん……』



 調教が始まって三か月あまり。


 これだけの期間をかけて、ルノルノは完全に人格を壊された。ウルクスに隷属することを命じられ、蹂躙され、それに服従した。


 気高き三日月刀はそんな娘を憐れんでいる父の魂に見えた。刃から零れる光の粒は父の涙だ。



『いや……見ないで……見ないで……』



 肩が震えている。無機質な彼女の目から涙が零れ落ちた。



『お父さん、見ないで……私を見ないで……! こんな姿になった私を見ないでぇっ!』



『ルノルノ……』



 久しぶりに見た彼女の感情の迸りだった。ルノルノは錯乱したように泣き喚き、その場に蹲って三日月刀を取り落とした。



『ルノルノ……ルノルノ……』



 ミチャはルノルノの横に寄り添い、その肩を抱いた。


 ルノルノの悲しみに寄り添ってあげることしか出来ない苦しみがミチャの胸に突き刺さる。


 ミチャは床に落ちた三日月刀の刃を見つめた。


 最初に見た時はそんなに何も思わなかったが、こうして研がれた姿を見ると反りの美しい刀だった。


 ルノルノはさっき、お父さんと言った。きっとこの刀は父親のものなのだろう。そして恐らく、この刀で愛しい娘を守ってきたのだろう。



(あなたの娘さんを無茶苦茶にしたあたしが言うのもおかしな話だけど……どうかルノルノを助けてあげてください……)



 ミチャはその美しい刀に自分の願いを祈ることしか出来なかった。

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