第72話 心の箍
翌日、ミチャはベラーノと共にカジャへ向かった。
朝の馬車に乗れば昼には着く。
一週間もあれば片が付くだろう。比較的楽な仕事のはずだ。
だがミチャは気乗りがしなかった。ルノルノに会えないからだ。例え話すことがなくても、その姿をこの目で確かめられれば心は痛むが安心だった。
早く終わらせて早く帰ろう。早くルノルノの姿を見て安心しよう。
そう思いながら出発した。
ルノルノはそんなミチャが出発していく姿を窓からぼんやり眺めていた。馬の世話を終え、朝食を食べ終えて部屋に戻って来たところだった。
「俺はしばらく寝る。好きに過ごせ」
ウルクスはそう言って夜通し護衛した疲れを癒す。
ルノルノは一人考え事に耽った。
ウルクスに飼育されているルノルノには仕事らしい仕事はない。
彼が風呂に入る時に一緒に入って背中を流したり、寝る時に性欲処理を手伝ったりするぐらいだった。
性欲処理の仕方は色々仕込まれた。上手に出来ないと殴られるのだが、上手く出来た試しは一度もない。必ず殴られるのだ。そんな感じだから、性欲処理は一番嫌な仕事だった。ただ、週に二、三回程度だからまだ耐えられた。
ルノルノは最終的にはウルクスと交わり、彼の子供を孕み、男と牝の関係になることが自分の仕事だと考えていた。だが彼が子作りをして来る気配はなかった。性欲処理は命じられるが、犯されることはなかった。理由は全く分からなかった。
その日の夜、性欲処理を命じられた。ウルクスはルノルノの口の中に己の欲望を放出すると、同時に彼女の両頬を鷲掴みにし、短く命じた。
「飲め」
ウルクスの命令は簡潔だ。だからトゥルグ語だがルノルノでも理解出来るようになっていた。
しかしルノルノはこの味が苦手だった。だから一瞬躊躇した。
「俺のものが飲めないとでも言うのか?」
彼が何と言ったか分からなくても、その表情の変化で何となく分かる。慌てて飲み込もうとしたが、それよりも先にウルクスの鉄拳が飛んできた。ルノルノの体は鞠のように跳ね飛ばされ、壁に体を打ちつけた。
ウルクスがルノルノの体の上に馬乗りになり首を絞める。
『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』
ルノルノの叫びでウルクスは余計に逆上した。
髪の毛を掴んで立たせると、その腹、背、腕などを殴りつけた。それも何発も何発も……。失禁して部屋が汚れると今度は背中を蹴飛ばされ、腹を踏みつけられた。暴行は常軌を逸していた。
翌朝、ルノルノは体の痛みに耐えながら馬の世話をした。
『キルス……』
唯一の癒しの存在はキルスだけだった。キルスの首を抱き、撫でる。キルスは優しくルノルノの胸に鼻を押し当てた。
しかしこの日は予期していなかったことが起きた。馬場にウルクスが姿を現したのである。
「おはよーございまーす、ウルクスさん。どうかしたんすか?」
事情を知らないユーラムが呑気に挨拶した。
「ルノルノは」
「彼女ならあそこにいるっすよ」
キルスを愛しそうに撫でるルノルノの姿に、ウルクスは逆上した。
ルノルノの心を破壊したい彼は、彼女に癒しの場があること自体許せなかった。
「ルノルノ! 来い!」
髪の毛を掴み、キルスから引き剥がすようにルノルノを引き倒した。
「お前に笑ったり泣いたりする権利はない! 自分が人間だと思っている証拠だ! お前は感情を殺せ! 二度とそんな顔するな! お前は俺の奴隷だ! 分かったか!」
ルノルノは何を怒鳴られているのか分からず、ただ跪いて謝った。そしてその日を境に、ルノルノは馬の世話に行かせてもらえなくなった。夕方の馬の世話の時間になって行こうとするとウルクスに止められ、殴られた。
その夜は性欲処理を手伝わされた。昨日ほどではないがまた殴られた。体中に痛々しい青紫色の痣が新たにつけられた。
次の日の夜、ルノルノは夢を見た。
ミアリナが笑ってルノルノを抱き締めてくれる夢。そこにはミチャもいた。ミアリナにミチャを紹介すると、彼女は笑って「ルノルノをよろしくね」と言ってくれる。
懐かしいミアリナの優しい笑顔。
それはルノルノの心をどこまでも温かく迎えてくれる。
ルノルノはミアリナに抱きつこうとした。
突然暗転して、ミアリナが串刺しにされる。その処刑を執行するのが、何故かアゴルだった。
ルノルノは叫んでミアリナを助けようと駆け寄る。しかし彼に阻まれ、ミアリナはゆっくりと串刺しにされ、ルノルノの名を叫びながら死んでいった。
その次はミチャだった。ミチャの相手はウルクスだった。ウルクスはミチャに馬乗りになり、暴行し、犯し、殴りつけていた。
ミチャは泣き叫びながらルノルノの名前を呼びながら、体中を痣だらけにして殴り殺されていった。
そこで目が覚めた。嫌な汗をかいていた。現実感はない。だがやけに鮮明な夢だった。大好きなミアリナがアゴルに、大切なミチャがウルクスに殺される夢。
ルノルノは自分の両手を見た。アゴルを刺した感触が甦ってくるような気がした。
あの時アゴルに乱暴されかけたことを思い出す。
あのまま抵抗しなかったら、きっと殺人者にならなくて済んだ。
罪を背負って生きるという大きな枷を自分にはめなくて済んだのだ。
こんなに苦しい後悔、悲しみが押し寄せることもなかったのだ。
でも……と思う。
でも、そうしたから、アゴルに蹂躙されなくて済んだ。
もうアゴルに押し倒されることも、殴られることも、首を絞められることもないのだ。
そう。
蹂躙されたくなければ……。
ルノルノの中で、何かが音を立てて壊れ始める。
心の箍が外れ、自分の中に閉じ込めていたどす黒い狂気が一気に溢れ出して来るように感じた。
『そっか……』
ルノルノは心の中を満たした黒い感情に取り憑かれた視線を眠っているウルクスに投げかけた。
『……殺せばいいんだ……』
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