第69話 永遠の煌めき

 ミチャはゆっくりと踵を返す。


 もう振り返らない。見捨てると決めたんだ。振り返る必要はない。


 そう思いながらルノルノから離れようとした。


 その時、ミチャの耳にルノルノの優しい声が届いた。



『ありがとう……』



 その声はさっきまでのような怯えた声ではない。何か吹っ切れたような、そんなはっきりとした、優しい声だった。



『え?』



 振り返らないでおこうと決めていたのに、予想もしていなかった言葉にミチャは思わず振り返った。


 ルノルノの頬は涙に濡れたままだったが、ミチャの方を真っ直ぐに見つめていた。



『……いつもいっぱい、おしゃべりしてくれて、ありがとう』



 ルノルノは涙を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。



『色んなこと、いっぱい、教えてくれて、ありがとう』



『な、何言ってるの? ルノルノ……』



『いっぱい、仲良くしてくれて、ありがとう……』



 ミチャの頭の中を、一緒に過ごした八か月の出来事が過ぎる。


 剣の練習。


 馬の世話。


 手作りのポーチ。


 競馬。


 デート。


 ほんの僅かなことでも思い出として甦ってくる。


 繋いだ小さな手。抱き締めた時の温もり。あどけない顔。無垢な瞳……。



『いっぱい、笑いかけてくれて、ありがとう』



 煙たかった。追い落としたかった。弄んでやろうと思った。


 それでも彼女は無垢について来た。


 何でも言うことを聞き、自分のことだけを信じてついて来てくれた。



『いっぱい、優しくしてくれて、ありがとう』



 フィアロムがこの子に触れた時、堪らなく嫌だった。


 それがなぜなのか。


 本当の理由は分かっていた。分かっていたはずなのに、自分に嘘をつき、それをウルクスの欲望、ウルクスとの約束にすり替えてしまった……。


 ルノルノは両手を広げて、ミチャにゆっくりと歩み寄った。彼女がかつてまだ幸せだった頃、きっとこうやって大好きな姉に甘えていたのだろう。


 ミチャは過去のルノルノを知らない。


 でもきっとそれは愛くるしくて、守ってあげたくなるような可憐な少女だっただろう。


 きっと姉や両親に慈しまれ、愛されて来たのだろう。


 今それを垣間見たような気がした。



『ミチャ……奴隷にはこの言葉は相応しくないって言っていたけど……でも、良いよね。私の心が残っている内に言っておくね……』



 やめて……それ以上言わないで……。


 胸が詰まる。


 息をするのが苦しい。


 本当に欲しい物?


 自由。贅沢。満たされる欲望……。


 違う。


 いや、違わない。


 いや、違う……。


 葛藤に悶えるミチャの体を、ゆっくりと柔らかく、温かい感触が包む。


 ルノルノの腕が背中に回されていた。


 そしてはっきりとその言葉はミチャの耳に届いた。



『……大好き……愛してる……』



 ミチャははっとした。


 その時、ルノルノが少しだけ……ほんの少しだけ……恥ずかしそうに笑った。


 自分の前で初めて笑ったのだ。


 時間にしてみればほんの僅かであったかもしれないが、ミチャにはその笑顔が永遠の煌めきのように感じた。



『ルノルノ……そんな顔して、笑うんだ……』



 ミチャの目から一筋、頬を伝った。


 そうだ。


 あたしはこの子のことが……たまらなく……。



 ――愛おしかったんだ。



 ミチャは胸に顔を埋めるルノルノを上に向かせると、その薄い唇に吸い寄せられるように自分の唇を寄せ、柔らかな口づけを交わしていた。


 初めての感触。


 とめどなく溢れる愛しい気持ち。


 ミチャはルノルノを求め、何度も何度も舌を絡めながら唇を重ねた。


 離れられなかった。


 このまま駆け落ちしてしまいたい。何もかも捨てて、一緒に逃げてしまいたい。


 そんな気持ちでいっぱいになるが、ルノルノはその気持ちを押し止めるかのように、名残惜しそうにしながらも、ミチャの体をゆっくりと押して離れた。



『ねぇ、ミチャ。お願いがあるの。これ、ミチャが持っていて』



 ルノルノはいつもしていた二本の首飾りを外し、ミチャに渡した。



『ラガシュマにはね。婚約する時、女の人から男の人に首飾りを送る習慣があるの。だからっていう訳じゃないけど……ミチャのこと、大好きだったから』



 ルノルノがいつもつけていた首飾りがミチャの首にかけられる。ミチャは何か言いかけたが、ルノルノはそれを断ち切るように言った。



『託したよ』



 ルノルノは薄々気付いていたのだ。


 ミチャが自分を見捨てるであろうことを。


 そして自分の心が壊れてしまうであろうことを。


 だからまだ本心が言える間に伝えたのだ。


 ミチャは拳を握りしめた。何もしてやることが出来ない自分が情けなかった。

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