第68話 離れゆく心
翌朝、日の出の頃、ミチャは目を覚ました。
ふと腕の中にある温もりに気づく。昨日の夜、ミチャは泣きじゃくるルノルノをあやしていたことを思い出した。
彼女はミチャの胸に額を押しつけて眠っている。
泣き疲れて眠ってしまったのだろう。そして自分もいつの間にか睡魔に襲われたのだろう。
昨夜はルノルノと寝る最後の夜だった。
シュガルの指示で、今日からルノルノはウルクスの部屋で寝泊まりすることに決まった。
良心が痛む。
そっとその可愛らしい頬を撫でると、ルノルノは目を覚ました。
『ごめん、起こした?』
ルノルノは首を横に振って、ゆっくりと起き上がった。
『キルスに、ご飯あげなきゃ……』
『あたしも行くよ』
二人で裏の馬場へと向かう。フィアロムの死体は消えている。
ゆっくりと倉庫を開けた。アゴルの死体もそこにはない。
二人のいた痕跡は全くない。まるで何事もなかったかのようにそのままだった。
イブハーンとミウレトの仕事は不気味なまでに完璧だった。
ルノルノはあの凶器となったフォークを手に取った。無言で、無表情に干し草を運ぶ。
ルノルノの中で色んな思いが交錯する。そしてそれはあの時の決定的な瞬間、アゴルの喉を貫いた感触の記憶へと繋がった。
異様なほどに鮮明な感触。
ルノルノの動きが止まる。
『ルノルノ?』
ミチャが振り向くと、ルノルノはその場に膝を抱えて座り込み、額をその膝に押し当てて啜り泣き始めた。
『ルノルノ……』
ミチャはその横に同じように座ると、小さな体の肩を抱き、幼子をあやすように、頭をゆっくりと撫でた
『きっと大丈夫だから……』
根拠のない言葉しか並べられない自分が歯痒い。こうなったのは全て自分のせいだと言うのに……。
(ごめん、ルノルノ。何もしてあげられなくて……)
『ミチャ……』
ルノルノは震える声でミチャを呼んだ。
『うん』
ゆっくり頭を撫で続けながら返事をする。ルノルノはミチャの手を取ると自分の手を重ね、力なく握った。
『怖いよ……』
人を殺してしまったこと、その罪を背負ったまま生きて行かねばならないこと、これから奴隷の奴隷としてウルクスと生活を共にすること、全てのことが彼女を押し潰していく。その重圧から逃れたいのだろう。ルノルノは助けを求めるように、ゆっくりと自分の指をミチャの指に絡めた。ミチャはそれに応えるように、きゅっと指同士を絡めて握り締めた。
その時、色んなことがミチャの頭の中をよぎる。
シュガルの命令は絶対だということ。
そして自分はそんなシュガルの愛人になるということ。
権力も財産も転がり込んでくるということ。
安楽な将来が約束されたということ……。
この子がシュガルの愛人になることはもはやない。欲しかったものが手に入ることも決まったようなものだ。
――良かったじゃん。
心の中の別の自分がそう言う。この少女を犠牲にして手に入れようとしたものはとてつもなく大きい。奴隷がその一生をかけて手に入れようとしても決して手に入らないものがもう目前にあるのだ。
あんたさえ現れなければ……自分のすることに何の疑いも、後ろめたさもなく、利益を追求出来たのに。
さらに邪な考えが浮かぶ。
今更何を悩むことがある?
全て自分の思い描いた通りに進んでいるじゃないか。
ルノルノをこのままウルクスの餌食にし、自分はシュガルとの人生を謳歌すればいい。
欲しいものは全部手に入れ、本来なら決して手に入らない安楽な人生を送る。
代償はこの少女の身の破滅と心の崩壊。取るに足らない奴隷の人生を一つ犠牲にするだけのことだ。
この子は弱いから犠牲になった。
自分に取って食われただけのことだ。
非情になれ。踏み台にしろ。この子を助けたところで損はしても得にはならない。
(あたしは奴隷。すでに人間性なんか捨てている……)
ミチャは絡めた指を少しずつ解いた。
一本、また一本と解かれる指を追い求めるように、ルノルノの指が虚空を彷徨う。
最後の一本が離れた時、彷徨っていたルノルノの手は力なく地面に垂れた。
その瞬間、ミチャはルノルノとの訣別を決心した。
これでいい。
このままこの子は見捨てよう。いつも通り過ごそう。シュガルの旦那のところに行って、ラーマさんの目を盗んで体を寄せ合おう。一刻も早く彼に抱かれるように努力しよう。ウルクスの指示なんかもう聞かない。代わりに言ってやるんだ。この子のこと、好きにしなよ、って。体を支配するだけなら言葉なんていらないでしょ、って。
旦那に抱かれて、男を知って、子供が出来たら自由になれる。
そしたらシュガルの旦那の妻のように振る舞って、お金もいっぱい貰って、贅沢三昧するんだ。
それから食べたこともないような珍しいものを食べて、身につけたこともないような宝石を身につけて……。
それから、旅行もしてみたい。ナークルの街は綺麗って聞くし、観光とかしてみたい……。
それから……それから……。
これから先の人生は楽しみでいっぱいだ。
『ミチャ……』
ルノルノがミチャを呼ぶ。ミチャは答えなかった。
もう見捨てようと心に決めた以上、この子の言うことに聞く耳なんて持たなくていいんだ。あたしはもう逃げていいんだ。
振り返らない。ルノルノのことなんてもう知らない。
ミチャは心を閉ざして立ち上がり、小さく蹲るルノルノを見下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます