第66話 シュガルへの報告
息絶えたフィアロムをそのままにして、ミチャは倉庫に戻った。
ルノルノは地面に座り込み、血まみれになった両手を見つめていた。
『ルノルノ……』
返事はない。恐怖に取り憑かれた目のまま、心はここにあらずであった。
無理もない。恐ろしい罪を犯してしまったのだから。
『ルノルノ!』
ミチャはルノルノの横に座り、肩を抱いてもう一度呼びかける。ルノルノはようやくゆっくりとミチャの方を向いた。
『どうしよう……ミチャ……どうしよう、どうしよう、どうしよう……』
絶望に満ちた声。ミチャはぎゅっとルノルノを抱き締めた。
『落ち着いて……ルノルノは悪くない。悪くないよ。身を守ろうとしただけ。だから心配ないよ』
ルノルノは動かぬアゴルを見て涙をぼろぼろと溢れさせた。
『死なせちゃった……死なせちゃったよ……どうしよう……怖いよ……どうしよう……』
震える唇で、何度も『どうしよう……怖いよ……』と繰り返す。ルノルノの精神は音を立てて崩れ始めている。
『大丈夫だよ! あたしが何とかするから! ルノルノのこと、守ってあげるから!』
ウルクスからも守れていないのに、何を守るというのか。しかしルノルノを落ち着かせるには嘘でも言わない訳にはいかなかった。
『こんなところにいても埒が明かないよ! 行こう!』
ルノルノは首を横に振った。
『嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! 行きたくない……! 帰りたくない!』
『大丈夫だから! 何とかするから!』
ミチャは嫌がるルノルノを無理矢理立ち上がらせた。
『大丈夫。ルノルノは大丈夫だから』
何度もそう声をかけて何とか屋敷の方へと歩き出す。ルノルノも泣きながら、ミチャに体を預けるようにしてふらふらと歩き出した。
(とりあえず旦那には言わないとなー……)
事後処理はシュガルに丸投げするしかない。こればかりは奴隷のミチャではどうすることも出来ない。
途中フィアロムの死体の横を通る。これを見せるとルノルノがまたパニックに陥りそうなので、ミチャは彼女からは見えないように肩を抱いて通過した。
しばらく歩いている内に、ようやく少し落ち着いたのか、ルノルノは自分の足で歩き始めた。俯いたまま、肩を落としてとぼとぼとミチャの横を歩いた。
『私、どうなっちゃうのかな……』
ミチャは何も答えられなかった。
アルシャハンの教義に照らし合わせるなら、もちろん状況も加味されるだろうが、殺人は基本的に公開処刑だ。ただルノルノはアルシャハン教には改宗していないので、別個に定められた帝国法によって裁かれる。しかしそれに照らし合わせても殺人は最悪死刑である。
しかしそんなことをルノルノに伝える訳にはいかなかった。ただでさえウルクスの調教で心を蝕まれ、病んでいる。そこへ公開処刑だなんて教えたらどうなるか分かったものではない。
(全部あたしが蒔いた種だ……)
強烈な自己嫌悪に襲われるが、後悔している場合じゃない。今はとにかくシュガルの旦那に伝えないと……。
屋敷に入ると、ミチャはシュガルの書斎に直行した。書斎の前にはウルクスとムルハトが立っていた。ウルクスがじろっとルノルノを睨む。ルノルノの異変に彼も気づいたはずだが表情を変えることはなかった。
ルノルノはウルクスの前に跪き、『ただいま戻りました』とだけ震える声で報告した。
『ルノルノ、行くよ』
ミチャはルノルノの言葉を訳さず、代わりにウルクスを睨みつけながら部屋の扉を叩いた。ムルハトの目があるので彼も特に何も言わなかった。
「誰だ」
中から嗄れた声が返って来た。
「ミチャです」
「入れ」
扉を開け、神妙な面持ちで中に入る。
「どうしたの?」
シュガルよりも先にラーマが驚いた声を上げた。
シュガルはコーヒーを嗜みながら、じろっと二人の方を見た。目つきが厳しい。それもそうだろう。ルノルノの両手は血塗れで、顔や体にも返り血が飛んでいる。これだけでも、ただ事ではないことはすぐに分かる。
「どうした」
シュガルの目はルノルノに注がれている。ミチャは単刀直入に答えた。
「ルノルノが、奴隷を殺しました」
「どういうことだ?」
「二人の奴隷に乱暴されかけたところを、反撃して殺したんです」
「二人ともか」
「いえ、一人」
「もう一人は?」
「あたしが始末しました」
シュガルはカップを傾けると、憮然として言った。
「勝手な真似を」
「すみません。騒がれて
「本来なら死刑ものだぞ」
「はい、分かっています」
シュガルはやれやれという表情で大きく溜息をついた。
「死体の場所は?」
「馬場とその倉庫に一体ずつ」
「そうか」
シュガルは外に控えているムルハトを呼んだ。
「イブハーンとミウレトの二人を呼んでこい」
少し間を置いて、ムルハトに呼ばれたイブハーンとミウレトがやってきた。
「馬場とそこの倉庫に奴隷が二人死んでいる。処理して来い」
彼らはシュガルの命令に疑問を持たない。なぜ死んでいるかとも聞かない。驚きもしない。二人はただ「分かりました」とだけ答えて退室した。
奴隷が死亡すると主人は奴隷契約書を役所に返還する義務がある。
つまり死亡を隠すことは出来ない。だからどのように言い訳をするかが問題となる。
ミチャは一つ深呼吸をすると、心配そうに聞いた。
「旦那。ルノルノは……捕まっちゃうんですか?」
シュガルは自分の顎を撫でながらルノルノをじろりと見た。
ルノルノは恐怖に怯えている。俯いたまま、震えている。狂気に取り憑かれそうになるのを必死に抵抗している人間の顔だ。
彼は少し考えてから言った。
「今回は心配しなくていい。ちゃんとしてやる。そんなことより先にその汚いのを洗って来い」
ルノルノの体は返り血以外にも干し草の屑や吐物で汚れていた。シュガルはルノルノ達を追い払うように片手を振った。
「……はい」
ミチャがルノルノを連れて行こうとすると、シュガルは言葉を続けた。
「人を殺ったぐらいで一々びびっているようじゃ、『仕事』は勤まらんぞ」
「そ、それはあたしがちゃんと面倒見ます……」
「そうしろ」
シュガルの冷たい視線を遮るように、ラーマが二人の間に割って入った。
「そこまでにして、とにかく、まずはルノルノちゃんを休ませましょう。ミチャちゃん、お風呂に入れるから手伝って」
「はい……」
ラーマとミチャはルノルノを支えながら、浴場に連れて行った。
シュガルがルノルノに背負わせようとしている運命は非常に冷たく残酷なものであることを、ミチャはこの時改めて認識したような気がした。
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