第65話 罪の隠蔽

「ひ、ひ、ひ……人殺しっ!」



 フィアロムは混乱し、慌てて扉から逃げようとした。しかし閂がかかっていて出られない。その時、外から扉を叩く音がした。



『ルノルノ! ルノルノ⁉︎ いるの⁉︎ どうしたの⁉︎』



 ミチャの声だった。


 ルノルノは震えた。


 目の前で身動きしなくなったアゴルを見て、震えた。


 喉が乾燥し、涙が溢れ、恐怖とはまた異なった得体の知れない何かが差し迫ったような黒い感情が心を覆っていくのが分かった。


 フォークがアゴルの喉に深々と突き刺さっている。


 それをやったのは……自分……。


 殺してしまった。初めて、人を。この手で。



『うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっっっ‼︎』



 全身から力が抜け、その場に座り込む。


 聞こえない声が一斉に非難する。


 殺した。殺した。殺した。殺した!


 得体の知れない黒い感情は大きな恐れ、混乱、悲しみ、狂気となって全身を支配する。


 胸を掻き毟りたくなる衝動と込み上げて来る嘔気。


 アゴルの喉を貫いた感触がのっぺりと手に張りついて残っている。


 立ち眩んだ時のような暗闇が視界を覆っていく。


 その視界の端で、フィアロムが慌てて何とか閂を開け、転げるように外へ飛び出していくのが見えた。



『ルノルノ!』



 それと入れ代わるようにミチャが踏み込んできた。


 彼女の目にアゴルの変わり果てた姿が映った。驚愕のあまり言葉を失う。そしてその先にいるルノルノと目が合った。


 ルノルノの目は恐怖と絶望に染められている。彼女は肩で息をしながら首を必死に振った。



『違う! 違うの! これは違うの! これは! これは……っ!』



 言いながら込み上げて来る嘔気に勝てず、その場に蹲って嘔吐する。



「ミチャ、ルノルノがったんだ……! 僕の目の前で刺したのを見た!」



 フィアロムが叫ぶ。


 彼もまたパニックに陥っていた。



「シュガル様に……そうだ、憲兵に、憲兵に連絡してくれ! アゴルが殺されたんだ!」



 ミチャは意外に冷静だった。とりあえず深呼吸を一つし、状況を整理しようと周囲を見回して観察する。



「ねえ、フィアロム。あなたとアゴル、何で裸なの?」



「え……? そ、そんなこと、今はどうでもいいだろ! アゴルが、アゴルが殺されたんだぞ!」



 フィアロムの叫びを無視して、ミチャは冷静な声で続けた。



「まぁ、状況から察するにルノルノを回そうとしたんだろうけどさ。質問変えるね。他に誰か誘った?」



「そんなの、呼ぶ訳ないだろ! そんな場合じゃない! ……そ、そんなことより、早く人を……人を呼んでくれ!」



「ルノルノは大丈夫。逃げるような子じゃない」



 ミチャはアゴルの喉に深々と刺さったフォークを引き抜いた。フォークの先端が綺麗に気管と頸動脈貫いている。いずれにせよ、致命傷を免れなかったのは一目で分かる。



「フィアロム、こっちに」



 ミチャはフォークを持ったままフィアロムを外へ連れ出し、ルノルノを一人閉じ込めるように倉庫の扉を一旦閉めた。



「これから、どうすればいい?」



 フィアロムはミチャに聞いた。彼女の冷静な態度に接してる内に、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。



「んー、そうだねー。どうしよっか。とりあえず色々まずいね……」



 ミチャは少し考えてから、フィアロムに言った。



「とりあえず、このことは内密にした方が、あたしはいいと思うんだよね。ほらシュガルの旦那って色々あるからさ……」



 シュガルは裏組織のボスである。実際表には出せないようなことも多々ある。そんなシュガルの屋敷の敷地内で起こった殺人事件なんか表沙汰になれば、あっという間に捜査の手が入り、要らない嫌疑までかけられる恐れがある。そうなれば組織壊滅の危険性だって出て来るだろう。


 幸い、アゴルは奴隷だ。死因なんてどうとでもなる。



「あ、あぁ、まぁ、そうだね……」



「それと、やっぱりこういうのは知ってる人間が少ない方がいいと思うんだよね。シュガルの旦那にはあたしから報告する」



 ミチャはフォークの先端を確かめた。ルノルノの力であんなに刺そうと思ったらかなり体重かけないと難しい。どうやって刺したのかは分からないが、応戦したら見事に気管と頸動脈を捉えたのだろう。偶然が重なったのか、それとも彼女の戦闘能力によるものなのかは分からない。



「だからあんたは……」



 そう言ってミチャはフィアロムの方をちらりと見た。彼はその視線の意図を悟り、頷いた。



「分かった。黙っておくよ」



「……いや、その必要はないよ」



 いつの間にか、ミチャはフォークを構えていた。


 フィアロムの喉に衝撃が走る。フィアロムは叫んだ。が、声は出なかった。フォークの先端が、彼の声帯を正確に破壊していた。


 ミチャは腕の力を込め、体を前のめりにして体重をかけた。鉄製の鋭い歯がじわりじわりとフィアロムの喉にめり込んでいく。


 彼は苦しみながら、その場に仰け反るように倒れた。


 ミチャは上にのしかかり、さらに体重をかけて彼の喉を深く貫く。



「色々考えてみたけど、あんたが生き残る選択肢は無かったわ。ん? なぜって顔してるね」



 フィアロムは苦しさで喉に刺さったフォークを掴んだが、ミチャの体を押し退けるほどの余力はもはやなかった。



「あんた達風に言えば、アルシャハンがそう望まれたから、かな?」



 光を失っていくフィアロムの目に映った最後の光景……それは無表情の中で、目だけを女豹のように細めたミチャの冷たい顔だった。


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