第55話 好きということ
ルノルノが、シュガルが兄の家に帰ったと知ったのは午後の剣術の練習をした後だった。
だからと言って日課が変わる訳ではない。一つ珍しいことがあったとしたら、夕方キルス達に餌を与えたあと、疲れて少し眠ってしまったことだろうか。
ミチャに起こされたのは日が沈んで大分経った頃だった。
『おはよ』
夢を見ていた気がする。久しぶりに何か懐かしい気持ちにさせられる温かい夢だった。だが目覚めた瞬間、内容は忘れてしまった。辛うじて覚えているのはミアリナがいたということだ。夢が現実で、現実が夢だったらどんなに良かっただろう。
そこまで考えてふとミチャと目が合う。彼女に見つめられると、ミアリナに会っているような、不思議な感覚を覚える。悲しみで固まってしまった心を解すように温めてくれる。だから目が覚めた時にミチャがいてくれると安心するし、嬉しい。
『ご飯、行こう』
そんなルノルノの気持ちを気づいた様子もなく、ミチャはルノルノの手を引いて厨房へと向かった。そんな引っ張ってくれるところも嬉しかった。
今日のルノルノの夕飯は薄いパン生地に炒めた肉や野菜を詰めて蒸し焼きにしたタントンというアルファーン家庭料理と街の屋台でも食べたクルギョというクレープの二つだ。このタントンはルノルノのお気に入りだった。
ルノルノはほとんど野菜を食べない。クルギョに入っている味つきの野菜や野菜スープなどは口にするが、野菜メインのサラダ料理は全くと言っていいほど手をつけない。遊牧生活では元々食べる習慣がないのだ。もう街に来て七か月以上経つのに、未だに食べようとしない。ミチャはルノルノの皿に無理矢理サラダを乗せた。
『食べなきゃ病気になるよ!』
ルノルノにしてみればどうみても馬の食べ物にしか見えないのだが、ミチャが怒るので渋々食べた。
(ルノルノでもあんな顔するんだ)
ミチャは珍しいものを見た気になる。この子にもちゃんとこういう形での好き嫌いの感情があるんだなと思った時、ふと頭に浮かんだことを口にしてみた。
『ねぇ、ルノルノ』
『うん』
野菜を嫌そうに食べながら、ルノルノは返事した。
『ルノルノって誰か好きになったことある?』
ルノルノは少し考えて、寂しそうに俯いた。
『お姉ちゃんのこと、大好きだったよ』
『あ、いや、そっちの好きじゃなくてさ』
そういうしんみりした空気にしたくて言った言葉じゃない。慌てて否定する。
『男の人ってこと。この人と結婚したい! とか子供作りたい! とかさ』
『うーん……』
ふとオルハンのことが思い出されるが、好きだったのかと言われると何か違う気がする。
次に思い出されたのはオロムだ。
彼に剣術で負ける度に、ときめきのようなものを感じたのも確かだ。そのときめきを大事に育てれば、好きという感情になっていたのかもしれないが、今となっては確かめる術はない。
「そういう感情、よく分かんない。結婚するのかなって思った相手はいるけど、好きかどうか分かる前に殺されちゃったから」
「そっかぁ……」
結局しんみりとした空気が流れてしまう。不意にルノルノは同じ質問をミチャにぶつけてきた。
『ミチャにはあるの? そういう好きになったこと』
ルノルノの素朴な疑問に、ミチャは少し考えてから答えた。
『んー、あたしはそういうの、ないかな。あたし、「好き」とか「愛してる」って気持ちは信じてないんだよね』
『そうなの?』
『だって、「愛」って実体がないじゃん。心と心が繋がることなんて誰も分からないじゃん。相手の心が読める訳じゃないのに』
『そうだけど……』
『つまり相手のこと信じるしかない訳でしょ? 信じれるかどうかなんて分かんないじゃん。だからあたしが信じるのは「性欲」だけ。交わればその分子供という「証」が残るもの。ずっと繋がりを感じられると思わない?』
主人に寵愛を受けるケースを除けば、基本的に奴隷は奴隷同士でしか結婚・子作りは出来ない。
そんな「恋愛」すら制限を受ける奴隷達だが、それでも自由人の権利を何一つ持たない彼らにしてみれば、それは比較的制限のない行為と言えた。
「恋愛」だけでも自由に。
この名目でなされてきた奴隷カップルの離合集散をミチャは数多く見てきた。
特に奴隷会では不倫や浮気は当たり前の行為だ。
『そもそも自由人と奴隷は違うしね。奴隷に大事なのは「性欲」と「証」だよ』
少々極端な言い方はしているが、これが十三歳にしてシュガルと子を成すという選択肢しかなくなったミチャが、奴隷会などの経験を通して導き出した恋愛観であった。
『なるほど……』
奴隷と自由人では恋愛の仕方も異なる。
納得はしていないが、ミチャの言うことだからそれが正しいのだろう、とルノルノは理解した。
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