第45話 感謝の気持ち

 ミチャが部屋に戻った時、ルノルノはいなかった。しかし今のミチャにはルノルノがいてもいなくてもどうでもよくなっていた。


 結局ラーマが帰って来る夕方まで昼食も食べずにシュガルの愛撫を受けていた。十分に満たされた気分だった。この満足感はミチャの気持ちを大きくしていた。



(何でルノルノのことなんかでうじうじしてたんだろ。ほんと、どうでもいい。あたしにはシュガルの旦那がいる。早くあいつを排除して旦那と一緒になりたい)



 ミチャの体はまだ疼いている。しばしベッドに寝転び、妄想に浸って自分を慰め始めた。


 その瞬間、突然扉が開いた。



『ただいま』



 ルノルノだった。馬の世話を終えて帰って来たのだ。いつの間にかそんな時間になっていた。


 ミチャはどぎまぎしながら『おかえり』と上擦った声で言った。


 ルノルノは別に気にした様子はなかった。何をしていたのか気づかなかったのか、分からなかったのか。


 ミチャは溜息をついて、醒めちゃったな、と思いながら立ち上がった。



『ご飯、行って来るわ』



 昼も食べていないから空腹は空腹である。それに体力もかなり使った。さっさとご飯を食べて寝ようと思った。


 ルノルノの横をすり抜けて食堂に向かおうとした。ルノルノのことは放置して。その時、後ろから声をかけられた。



『ねえ、ミチャ』



『ん?』



 少し振り向く。


 ルノルノが泣きそうな顔をして俯いて、ミチャの服の裾をきゅっと握っていた。



『あのさ……朝も、昼も、いなかったから……夕方だけでも……だめ……?』



 大きな目に涙をいっぱい溜めている。


 ルノルノに対してはもう醒めた気持ちになっていたはずなのに、また胸が熱くなるような、締めつけられるような奇妙な感覚に捉われる。



(なんて顔すんのよ……)



 これで断ったら、自分が悪者みたいじゃないか。



『いいよ。おいで』



 ルノルノは涙を拭いてミチャの手を握った。


 本当に無垢で、泣き虫で、甘えん坊。



「何でこんなに振り回されてんのかなぁ、あたし……」



 手を繋いだまま、ミチャはルノルノを連れて食堂へ向かった。








 食事から戻って来る時もルノルノはミチャの手を離さなかった。



(でも、どうせ部屋に戻ったらそのままラーマさんとこ行くんでしょ)



 ミチャはこんなに手を繋いでいても、時間が来ればすぐに離れていってしまうことに一抹の寂しさのようなものを感じた。


 しかしその感情を慌てて否定する。


 違う違う。寂しい訳がない。こいつは邪魔者。自分の将来を脅かす邪魔者なのだ……。


 ところが部屋に入ると、ルノルノは毛布を床に敷き始めた。



『あれ? 行かないの? ラーマさんとこ』



 ルノルノはこくんと頷いた。



『どうして? あんなに刺繍、夢中にやってたじゃん』



 するとルノルノはごそごそとベッドの下から何かを取り出して来た。



『これ……』



 それは小さなポーチだった。


 長い紐が付いていて、肩から下げられるようになっている。そこには可愛らしい花の刺繍が描かれていた。



『これ、ミチャのために……作ったの……』



『あたしに?』



 自分と一緒にいるよりも刺繍していることの方が楽しいからあっちに行っているものだと思っていた。ラーマの方が優しいから、そっちに行っているものだと思っていた。


 しかしその実は自分のために、ルノルノは一生懸命このポーチを作ってくれていたのだ。


 決して上手とは言えない。しかしルノルノの可愛らしさが伝わるポーチだった。



『ミチャはいつも私に話しかけてくれたり、明るく振る舞ってくれたり、色々教えてくれたりするから……そのお礼のつもりで……。気に入らなかった……かな……』



 ラガシュマ語で一度に沢山しゃべられると聞き取り辛い。だが言葉が分からなくてもルノルノの一生懸命さは十分に理解出来た。


 ミチャは照れ隠しに笑った。



『馬鹿だなぁ。奴隷は、物を持っちゃ駄目なんだよ? だから、いくらあたしのために作ったとしても、これはシュガルの旦那の物になっちゃうんだよ?』



『うん……だから、内緒でって……ラーマさんが……。その……受け取って、もらえますか……?』



 ミチャは奇妙なときめきを感じた。


 彼女を否定する自分と肯定する自分。その両者がせめぎ合う。


 だが次の瞬間、ほとんど無意識にルノルノの小さな体を優しく抱き締めていた。



『ありがと。大事にするね』



『嬉しい』



 ルノルノもきゅっとミチャに抱き締め返した。


 その夜からミチャはルノルノを自分のベッドに招き入れるようになった。


 ルノルノと手を握りあって一緒に寝る。


 ミチャはこんな温かい気持ちになったことに戸惑いを感じずにはいられなかった。


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