第42話 母の匂い
コースを駆歩で何周か走らせる。襲歩を試すなら城外の馬場へ出た方がよいので、ここでは駆歩止まりだ。
それでもミチャにとって、その走りは見ているだけでも気持ちが良い。馬上はどんな風を浴びられるんだろうな、と思う。
ミチャは半分遊牧民に生まれながら、馬も知らず、その風も知らない。
カルファ族の末裔というだけで、半分はサヴール人だし、中身は生粋のアルファーン人である。
そんな彼女でもやはり馬を見ると遊牧民の血が騒ぐのか、一度で良いから乗ってみたいな、と思ってしまう。
そんなことを考えていると、ルノルノがミチャのところへ戻って来た。下馬し、キルスを解放して休ませる。
『ねえ、ミチャ。キルスが走る競馬場ってどんなところ?』
『ん? 西の門の馬場じゃないのかな?』
『一周? 二周?』
『ごめん、そこまでは分かんない』
大衆競馬ならシュガルに連れられて何回か行ったことはあるが、貴族競馬がどこでどんな感じで行われているのかは見たことがない。
シュガルなら何度か政治家との付き合いで顔を出していると思うので、いくらか知っているかもしれない。
『じゃあシュガルさんに聞きに行きたい』
『うん、いいよ』
ルノルノはミチャの手を取って、歩き出した。
(え……)
一瞬どきっとした。ルノルノが積極的な行動に出ること自体珍しいのに、さらにミチャの手まで握ってきたのである。
『そ、そんなに急がなくても……』
珍しくミチャがルノルノに引っ張られる。
馬のことになるとこの子は積極的になるのかもしれない。
「ちょっとシュガルの旦那のとこ行ってくる!」
そうフィアロムに言うと、彼は片手を振って応えた。
シュガルの部屋に行くと、彼はコーヒーを嗜んでおり、ラーマはハンカチのような布に刺繍を施しているところであった。
「あら、ルノルノちゃんにミチャちゃん。二人揃ってどうしたの?」
手を繋いで入って来たことが微笑ましいのか、ラーマは手を止めて可愛らしいものを見るような優しい目で出迎えた。
「あー、シュガルの旦那に用事があるんだって、ルノルノが」
「俺にか? 何の用だ?」
シュガルは不思議そうにこの無表情な少女を見た。
「何か、今度の競馬で走るコースが知りたいんだそうです」
距離、直線なのか周回なのか、何周走るのか、地面の状態、傾斜である。
「コースは東の海岸沿いにある貴族用の競馬場だ。周回で一周だな。距離は西の馬場を参考に作っているから同じのはずだ」
今回の貴族競馬のホストであるバルファ公は競馬が好きで、それが高じて東の海岸に貴族競馬用の競馬場を作ってしまった人物である。
ちなみに西門の馬場は大衆競馬用である。
バルファ公自身も馬は二十頭ぐらい飼っていて、お抱えの騎手や調教師を雇っている。貴族の身でありながら大衆競馬にも姿を現し、時には賞金を分捕ったりしているので商人達の間では今ひとつ評判が良くない。シュガルもバルファ公の馬自慢には辟易しているところがあった。
「傾斜は知らんが、多分無い。地面は普通の土だ。そんなに変わったコースではなかったと思うぞ」
それが伝わるとルノルノは一礼した。
二人が退室しようとすると、ラーマが二人を呼び止めた。
「せっかく来たんだし、お菓子食べていけば?」
そう言って二人にパイ生地のお菓子を与える。
「おいおい、あんまりそいつらを甘やかすんじゃない。依怙贔屓だと思われるぞ」
「今この屋敷で十八歳に満たないのはこの子達ぐらいよ? まだまだ子供なんだから多少のことで目くじら立てないでくださいな」
ラーマはころころと笑って意に介していない様子だった。
その子供と思っている少女にシュガルを寝取られかけているのだが、ミチャは大人しく子供の振りをしてお菓子を貰った。
そもそも果物以外で甘いものを口にする機会なんて滅多に無い。こうしてラーマがお裾分けをしてくれる時だけありつける貴重品なのだ。
ルノルノは初めて見るお菓子に戸惑いながら口に入れる。蜂蜜の甘い味が口内に広がる。ラガシュマ族にとって砂糖や蜜は贅沢品だ。それをこんなにふんだんに使っているということは、かなり高価なものに違いなかった。
「どう? 美味しい?」
ミチャが訳して聞くと、ルノルノは小さく頷いた。
ラーマは不思議な女性だと思う。
誰に対しても分け隔てなく接し、また優しい。特に自分達には惜しみない愛情をもって接してくれる。裁縫や刺繍、編み物が得意で、頻繁に服やタペストリーなどを作っている。またラーマ自身の小さな店をこの近所に構えており、出来た物を奴隷に売らせているらしい。
年は二十四で、シュガルとは親子ほども違うが、二人の仲は良い。
ルノルノはお菓子を食べながら、テーブルの上に置かれた作りかけの刺繍を見た。
「これはまだ未完成よ」
そう言いながら、ルノルノに見せてくれる。ラガシュマの刺繍よりずっと鮮やかで似ていないのだが、なぜかその刺繍に母の面影を見た。
いつも夜になると母は姉と自分に刺繍の仕方を教えていた。ルノルノは細かな手作業は苦手だったが、一生懸命母の真似をしようとした。でも結局上手くなれなかった。上手くなる前に、母は全身を無数の矢で射抜かれ、苦しみもがきながら死んだ。
突然、ルノルノの目から涙が溢れた。
「あらあら、どうしたの? 急に……」
ラーマが慌てて自分のハンカチでルノルノの涙を拭いてやる。
「何か思い出しちゃったのかな」
そう言いながら、ルノルノをその豊かな胸に抱きしめて頭を撫でた。
母とは全然違う人なのに、同じ匂いがするような気がした。
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