第31話 奴隷契約
一行が最初に向かったのはユンの元である。
「ほう、見違えたぞい」
すっかり小綺麗になったルノルノを見て、ユンは目を丸くした。
「わしの目に狂いは無かった。良い女に育ちますぞ」
「あぁ、俺も気に入った」
ルノルノの肩を抱きながら、シュガルは満足そうに頷いた。
「それじゃあ、支払いだ。残りの三十ミアリと馬代の五十ミアリ、それと奴隷税八ミアリと馬税五ミアリな。残りの女も早く揃えてくれ」
「何とか集まりそうですわい。うん、しめて九十三ミアリ、確かに受け取りましたぞい」
奴隷には五分の一、馬には十分の一の消費税がかかる。この税金分も購入者が支払う。
かなりの大金である。
「こんな大金、この老体では守りきれんな」
領収書と売上伝票を
「なんならウルクスを護衛にして銀行に行ってくるが良い」
「それは心強いのう」
「ウルクス、ユンを頼んだ。俺はこいつらと先に法務署に行ってくる。そっちが終わったら先に屋敷に戻っておけ」
「分かりました。ジェクサー、マウル、護衛を頼むぞ」
ジェクサーは無言で、マウルは「了解」と言って頷いた。
次に連れてこられたのは青い施釉レンガをふんだんに取り入れた美しい装飾で壁面を彩った巨大な建物だった。
『ここは?』
ルノルノがミチャに不安げに聞く。
『法務署。色々手続きするところ』
中に入るとカウンターが並んでいる。シュガルは迷うことなく一番左端に向かった。他のメンバーもそれに従う。
「これはこれはシュガル殿、ごきげんよう。今日はいかなるご用件ですかな?」
カウンターの中の男が愛想良く挨拶した。するとシュガルはルノルノを指差して言った。
「ハルム、元気そうで何よりだ。新しい奴隷を手に入れた」
「なるほど。奴隷契約ですな」
「そうだ」
「少々お待ちを」
ハルムが奥へ行くと同時にジェクサーとマウルはシュガルとクロブを守るようにその両脇に立った。
ミチャは通訳としてルノルノの横に立つ。
やがてハルムが三枚の亜麻で作った紙を持って来た。
「それでは始めましょうか」
ハルムは奴隷の名前、年齢、性別など質問しながら契約書を別々に三枚作成していく。
書き慣れているのか、筆記速度は異様に速い。質問は矢継ぎ早に行われていった。
「……で、宗派は?」
「分からん。アルシャハン教でないことは確かだ」
「クライド教徒でもない?」
「遊牧民だぞ。そんな訳ないだろう」
「じゃあ遊牧民特有の自然信仰にしておきます。奴隷解放の条件は? 決めておけば我らが神、アルシャハンの加護が得られますぞ」
「そうだな。俺が許可した時、俺が死んだ時、自由人と子を成した時、だな」
自由人とは奴隷以外の市民全般を指す。
この解放条件を聞いた時、ミチャはぴくっと反応して顔が強張った。
アルファーン帝国における信仰宗教はアルシャハン教といい、アルシャハンを信奉する一神教である。
このアルシャハン教における教義は、信仰対象という以外にも、生活規範という側面も併せ持つ。
つまりアルシャハン教は「信仰」だけでなく、「倫理」として、そして「法律」としてアルファーン帝国人の心に根付いているのである。
そんなアルファーン帝国において、主人と奴隷というのは神の法に定められた契約関係にある。
奴隷は主人のいかなる命令にも従うという義務を背負うが、主人も奴隷に対して扶養義務を伴う。
例えば、衣食住を提供しなければならない、一か月に一日以上の休息をあたえなければならない、希望があれば教育も受けさせなければならない、などである。
これらを破れば奴隷といえども司法に訴えることは可能である。
また、奴隷を解放することは功徳であり、解放の条件を作っておくことで神の加護が得られ、解放を実行すれば死後に神の国へ行けることが約束される、とされている。だから解放条件の一つに「自分が死んだ時」と入れるのが慣例であった。
つまりアルファーン帝国における奴隷制度は一方的な隷属関係を強要するものではない。
ただし奴隷には財産を所有する権利がない、食料品以外の物の売買は出来ない、自由人との結婚・子作りは主人以外とは出来ない、奴隷同士の結婚は自由に出来るものの出来た子も身分は奴隷である、など市民としての権限は著しく制限されているのも事実である。
ただし、これらの決まり事の一部は主人の許可があればこの限りではない。
「子作りだけでいいですか? 結婚は入れなくていいですか?」
「結婚は入れなくて良い。する気もないことを書いてはアルシャハンの怒りを買う」
「分かりました。えっと、じゃあ、内容はこんな感じですかな。その奴隷は字が書けますか?」
出来上がった契約書をシュガルに確認してもらいながら、ハルムは聞いた。
「いや、書けんだろう」
そもそもルノルノは今何が行われているのか全く理解していない。ミチャの横でぼんやり突っ立って、目の前のシュガルとハルムのやりとりを眺めているだけである。
『ルノルノ』
ミチャに呼ばれてようやく意識をそちらに向ける。
『字、書ける?』
首を傾げる。ラガシュマ族は字を持たない。何か情報を伝える時に指で土に絵を描くことはあるがその程度だ。だからそもそも「字」という概念そのものが希薄だった。
「手掌印でも良いですよ」
ルノルノの左手を赤い染料で染めて、三枚の奴隷契約書に押させる。小さな手形がその三枚の書類にはっきりと残った。
さらに主人の許可があればアルファーン帝国内の行き来が自由に出来るようになる通行許可証の札がシュガルに渡された。
「これでシュガル殿とそこの遊牧民の奴隷契約は神の下で成約されました。お互いがお互いの義務を果たされますように」
ルノルノとシュガルとハルムはそれぞれ一枚ずつ保管する。こうしてルノルノの奴隷契約は終わった。
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