第29話 揺れる気持ち

 一旦苦手という印象を持ってしまうと、ルノルノへの苛立ちが次から次へと湧いてくる。


 塞ぎ込むのは勝手だが、少しぐらい喋れ。いつまでもめそめそするな。甘えるな。悲劇の主人公を気取って、自分って可哀想なんて思っているんじゃないのか。


 そう怒鳴りつけたくなるのをぐっと我慢する。


 こんなのを相棒にしたらこっちの足まで引っ張られるんじゃないか。


 それでもシュガルの命令もある。とりあえず努力はしたという事実を作っておかないと後が五月蝿い。


 もし相棒が勤まらないとしたら、この少女が生き残る道は娼婦か召使いぐらいしかないだろう。



『じゃあさ、今度旦那に許してもらって、街に出かけてみよっか』



 気を取り直してそう言うと、ようやくルノルノの視線がミチャに向けられた。


 初めて視線が合った。


 その瞳は不安げで、寂しそうで、虚で、無気力だった。



『あたしが案内するからさ。面倒くさいこともいっぱいあるけど、楽しいこともいっぱいあるし、ね?』



 実際は別に一緒に出かけたい訳ではない。半分愛想、半分自棄だ。


 やがてラーマが鋏を持って帰って来た。



「髪の毛、少し切りましょうね」



 ルノルノは大理石のベンチに座らされ、最初にお湯を頭からかけられた。


 お湯の温度はちょうど良い。夏場に水浴びぐらいしかしたことがないルノルノには新しい体験であった。


 ラーマはお湯を髪に馴染ませると、櫛で頭に湧いた虱を削り取っていく。櫛の引っ掛かりがある程度解けた時点で髪に鋏を入れた。


 後髪は首の後ろぐらいで、前髪は眉毛ぐらいで切り揃える。ぼさぼさに余った横の髪は綺麗に梳いて削ぎ落とし、軽くしていった。



『ラーマさんは器用だから何でも出来るよ』



『ラーマ?』



『彼女の名前』



『ラーマ、ラーマ、ラーマ』



 言葉が通じないにも関わらずここまで気遣ってくれる優しい女性の名前を繰り返し呟いてみる。



「ん? 私の名前覚えてくれたの?」



『ラーマ……』



「ふふ、トゥルグ語も少しずつ覚えられればいいわね。はい、出来たわよ」



 長さはある程度残してはいるものの、すっきりと切り揃えた頭は少年のように見える。



「さ、髪を洗いましょうね」



 石鹸をお湯に溶かし、それを髪に付けていく。



『それ、なに?』



 もちろんルノルノは石鹸なんてものは知らない。



『石鹸って言って、木の実から取れる油で作った体につけるお薬よ。こうして髪の毛につけることで虱にも効くんだよ』



 そんなこと父親にもハガシュにも聞いたことはない。初耳だった。


 石鹸を髪に馴染ませたらまた櫛で梳いて虱を卵まで根こそぎ削り取る。削り取ったら一回お湯で流す。


 ラーマはその工程を何回も繰り返した。


 とりあえず目につく虱を全部とり終えると、最後に香油を髪に塗り込み、頭を保護するようにタオルを巻いた。



「とりあえず髪の方はこれで置いておいて、次に体ね」



 さっきの石鹸を馴染ませたタオルで体を拭いていく。頭の先から爪先まで、それこそ爪の間、陰部までもお構いなしに洗われた。



「ルノルノちゃんって、ただ痩せてるだけじゃないのね。凄くしなやかな体してる。それなのに手はしっかりしてるわね。やっぱり剣術をやってるからかしら」



 ラーマはそんなことを言いながら、タオルを何回も変えて体の隅々まで磨きあげた。


 剃刀の刃を体に当て、体毛を剃っていく。とは言うもののそれほど体毛も濃くはない。さっと撫でるぐらいで滑らかな肌になった。


 そして最後に髪の香油を流す。髪からハーブの甘い香りがした。ルノルノはまるで自分の髪ではないような錯覚すら覚えた。



「出来上がり!」



 ラーマは最後にもう一回櫛で濡れた髪を整えてから言った。



「どう? ミチャちゃん」



 暗い顔をしているが整った顔をしているなとは最初から思っていた。それを改めて「どう?」と聞かれても……と思いつつルノルノを観察する。


 土埃で燻んでどろどろに汚れていた茶色の髪は汚れが落ちて本来の色を取り戻し、香油で艶を得て輝いていた。


 泥と垢にまみれた肌も汚れが取れると玉のように瑞々しく、白い。


 目はぱっちりと大きく、吸い込まれそうな黒い瞳は神秘的ですらあった。鼻筋も高過ぎず低過ぎないちょうど良い高さであり、その唇は薄く可愛らしい。


 ミチャは思わず見惚れて言葉を失った。嫉妬とか羨望とかそういう感情を全て超え、尊ささえ感じるような可愛らしさに思えた。



「ミチャちゃん?」



「……え? あ、あぁ、ええっと……うん、すっかり見違えました!」



 慌てて取り繕う。


 ルノルノの変わりようには驚いた。しかし何よりも驚いたのは、あれだけ嫌っていたくせに彼女に目を奪われてしまった自分に、だった。



(違う。見惚れたんじゃない。あれはちょっと驚いただけよ)



 ミチャは頭を振って、一瞬でも抱いた憧憬の気持ちを振り切り、陰鬱な表情の彼女を否定し続けた。


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