第5話 大人への一歩

 朝食の後は小一時間ほど休憩してから遊牧に行く準備をする。


 ラガシュマ族は基本的に昼食を食べる習慣がない。昼の間は手のひらサイズの乾燥チーズと干し肉を携帯しておき、小腹が空いたら少し齧る程度で済ます。


 ルノルノはいつも乾燥チーズを二つ、干し肉を五枚、お気に入りのポーチに入れるようにしている。いつもそんなに食べることはないのだが、予備はいつも忍ばせていた。



『キルス、おはよ』



 馬群の中から一頭の褐色の濃い黒鹿毛の馬に近付くとルノルノはその首を撫でながら声を掛けた。


 似たような馬が沢山いても、自分の馬は見分けられる。遊牧民族ならではの特技だ。



『よしよし』



 キルスという名が付いたその馬は、ルノルノの胸元に鼻を押し当てて甘えてきた。


 そのキルスに鞍、鐙、馬銜、頭絡……と馬具を慣れた手付きで着せていく。そしてお気に入りのポーチを斜めがけにし、木剣を一振りキルスの背に積んだ。


 少し離れたところでも、父親が自分の栗毛の馬に馬具を着せていた。


 朝食の席で取り乱した一件のせいで少し気まずい。


 二人は無言で馬に乗り、牧草地へと向かう。二人の馬を先頭に、犬のラクシュがその後に続き、さらに羊達の群れがその後ろから付いてくる。


 ルノルノは父親と馬を並べたくなくて、少し後ろに下がっていた。


 するとロハルの方からルノルノの隣に来て馬を並べた。



『母さんもな』



 ロハルはおもむろに口を開いた。



『うん』



『元々はカルファ族の生まれだった』



 カルファ族はタンジス高原の中央から東の端、アヴェル砂漠の手前あたりにかけて住むモルテナ語族系遊牧民族で、人口は三十万人程度である。



『遥か東からうちに嫁いで来てな。家族から離れ、習慣も言葉も違うところへ来た。そりゃ不安だっただろう』



『うん』



『母さんの家族も不安だったと思う』



 ロハルは小さく溜息をついた。



『お前達が産まれた時は本当に嬉しかった』



『うん……』



『お前達には私の持ち得る愛情を注いできたつもりだ。お前達が病気になった時は夜も寝ずに看病したことを昨日のように思い出す。そんな可愛い娘をユルヴァハンのところへ送り出すのは私も不安だ』



 ルノルノは父親の顔を見た。その顔に喜びの色は無かった。



『お前もあと何年かすればミアリナと同じように嫁いでしまう。そうなれば母さんと二人だけになってしまう。正直寂しくないと言えば嘘になる。それでも……』



 ロハルは寂しそうに笑った。



『それでも、母さんの家族がそうだったように、幸せを願って送り出すしかないんだ』



 ルノルノは俯いた。


 大人になれば嫌なことでも嫌だとは言えなくなるのか。大人になることの難しさを痛感する。


 あの時、ミアリナの顔は強張っていた。本当は姉も嫌だって言いたかったのだろう。それを飲み込んで自分を諭したのだ。



『母さんはもっと寂しいだろう。家族から離れて暮らし、そこで築いた家族が今度は自分から離れていくんだから。わがままを言いたい気持ちは分かる。でも私達も手放しで喜んでいる訳じゃないことだけ知っておいてくれ』



 ルノルノは母親の気持ちを考えると辛くなった。リエルタはあえて嬉しそうな顔をしたのだろう。みんなの雰囲気が暗くなるのを恐れて。それを知らずに自分のわがままで喚き散らしたことを恥じた。


 しかし寂しいものは寂しい。あと数年で離れ離れになってしまうのだ。



(寂しいけど、わがままを言っちゃいけない)



 その寂しさを振り払うように、ルノルノはそう自分に言い聞かせる。それが大人への第一歩なのだ。








 少し離れた牧草地までやって来た。もちろん春の来ていない草原に草がそんなにある訳ではない。しかし干し草の備蓄にそんなに余裕がある訳ではないので、遊牧も併せて行う。


 遊牧の主な仕事は羊と山羊の群れの制御である。


 馬は種牡が群れに対する統率力を持っているので、群の位置だけ把握したら見張りをつけずに放置出来る。


 だが羊はそういった統率力がないのですぐに群れがばらばらになってしまう。群れからはぐれれば狼の餌食になることもあるし、よその羊の群れと混じってしまうこともある。そこで制御する必要性が出て来るのである。


 その地形や草の生え方や水飲み場の位置、その日の天候や風向きなどを考慮してその日の群れをどう動かすか考え、誘導する。


 羊の移動速度は遅いので、特に問題なければ群れを放置し、一旦マフに帰って別の仕事をすることも出来る。ただこの冬営地での遊牧は二十五世帯分の群れが牧草地にやって来るため、どうしても密集してしまい、群れが混ざりそうになることが多々あるので目が離せない。


 本来そういった遊牧の技術は男の子に伝承される。だが馬が姉の次に大好きなルノルノは父親の仕事を勝手に手伝い始めた。そして今ではその技術を女の子の身ながら習っているのである。








 家畜達は散開して行った。遠くに行かないように、また他の人の家畜と混ざらないように見張るが、そうそう頻繁に何かが起こることはない。


 こういう時、ルノルノは剣の稽古をした。


 キルスから降り、自主的に鍛錬を積む。ロハルから手解きを受けることもあるが、彼は別の仕事に行ってしまったため、今回は自主練習をした。


 持って来た木剣で構えを作り、そこから流れるような動きで型を作っていく。流麗にして勇壮。優美にして大胆な動きを組み合わせ、敵を追い詰めていくイメージをしながら剣を振るう。


 以前、一度父親に聞いたことがある。



『ラガシュマの剣術は本来二本の剣で行う。だが二本同時に扱うのは難しいんだ。だからその伝統は失われ、今は一本で戦うようになったんだよ』



 剣を左手に持って同様の型を試してみる。右利きのルノルノには左手で武器を扱うのが難しかった。だが何度も練習を重ねる内に右手ほどではないがそこそこ速く、正確な動きが出来るようにはなってきていた。


 ただ、筋力が足りない。連動させるとなるとまた別だ。木剣が二本欲しい。


 剣を振るっている内に雑念が入り込む。姉がいなくなる。ルノルノは左手に握った剣を握りしめ直すと、寂しさを断ち切るように剣を振るった。


 いつしか父親を驚かせたくて密かに二刀の練習を積んでいるのだが、これが出来るようになったら父親に認めてもらえるような、そして男の子達が憧れるような「特別な」大人になれるのかな、とぼんやり考えていた。


 その時、馬の蹄の音が背後から近付いて来た。そっちの方を振り向くと、オロムがこちらに向かって馬を駆ってくるのが見えた。


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