第4話 嫁ぐということ

 仕事を終えてしばらく姉と遊んでいる間にロハルも仕事を終えて帰って来た。



『お帰りなさい。朝ご飯にしますね。あなたたちも遊びはそこまでにしておきなさい』



 朝食に出て来たのは秋の間に作った乾燥チーズと、屠った羊の干し肉を入れたスープだ。タンジス高原に住む遊牧民族にとってはこの時期における定番の朝食である。スープの味付けは岩塩だけなので非常にシンプルだ。


 冬の間であれば日中でも零下となるので、例え生肉でも外に置いておけば冷凍保存出来る。だからいつも新鮮な肉が食べられるのだが、これからの時期はどんどん暖かくなって来るので保存が難しくなる。それ故、肉は干し肉に加工されていく。


 街で買い付けた小麦粉がある時は平たく焼いたパンや羊の脂で揚げた揚げパンがつくこともある。



『そうそう、ミアリナ』



 家長席に座って朝食を食べているロハルが何かを思い出したように、向かいに座っているミアリナに言った。



『何? お父さん』



『ユルヴァハン族の族長クルルスさんを覚えているか? 三年ぐらい前に来られた……』



 ユルヴァハン族は人口八十万人とタンジス高原にいるモルテナ語族系遊牧民の中では最大規模を誇る。それだけに族長は十人ぐらいいて、それを取りまとめる大族長がいる。クルルスはその十人の一人である。



『覚えているけど、そのクルルスさんがどうしたの?』



 ルノルノもそのお偉いさんのことは覚えている。背が高く、逞しい感じの人だった。当時七歳の自分の頭を撫でてくれた。顔もはっきり覚えている。意外にルノルノは覚えるのが得意だ。



『いや、今度のエル祭りに来られることになっていたんだが、息子さんも連れて来られるという話になった。それでミアリナ。その息子さんがお前に興味あるらしい』



 エル祭りこと「春の恵みに感謝するエル・キ・セラン・ヒルヌ祭り」は十日後に行われる。



『そうなんですね……』



 ミアリナはその言葉の意味をすぐに理解した。


 リエルタもすぐに理解して、驚いた顔をしている。



『あら、そんな話がありましたの?』



『あぁ、昨日の寄合でそんな話が出てな』



『おいくつの方?』



『十八になる。うちの族長に言わせると落ち着いていて胆力もありなかなかの青年らしい』



 リエルタもミアリナも一瞬顔が曇ったが、リエルタの方はすぐに笑顔を作った。



『それはおめでたい話ね。願ってもないことだわ』



『どういうこと?』



 ルノルノだけがよく分かっていない。干し肉の筋を噛み締めながら、三人の顔を代わる代わる見て小首を傾げていた。



『お見合いよ』



『お見合い?』



『そう。クルルスさんところの息子さんとミアリナお姉ちゃんのね』



『え……』



 ルノルノは干し肉を噛み締めるのを止めた。顔が強張っている。



『……お、お姉ちゃん、結婚……しちゃうの?』



 ルノルノの声は震えていた。



『まだ会ってみないと分からないけどね』



 とは言うものの、親同士が合意すればよっぽど変な人でもない限り、ほぼ決まりである。ラガシュマ族に限らず、遊牧民族にとって家長の言葉は絶対だ。娘の、ましてや子供の意見なんか割り込む余地など少しも無い。



『やだ』



 それでもルノルノは首を横に振った。



『お姉ちゃんが遠くに行っちゃうなんて、やだ』



 タンジス高原の遊牧民族達は部族同士や氏族同士で婚姻のやり取りをする族外結婚が多い。


 ユルヴァハン族のことは幼いルノルノですら知っている。日が昇る方向に何日も行かなければならない、遠いところに住んでいる部族という程度の認識ではあるが、姉がそんな部族の人と結婚してしまったら離れ離れになってしまうということは容易に理解出来た。



『わがまま言っちゃだめよ、ルノルノ。お姉ちゃんもそういう年だし、あなたにもそういう時期が来るのよ?』



 それは分かっている。それでも大好きな姉が取られるのが嫌だった。



『やだやだやだ! 私、お姉ちゃんと一緒がいい!』



『ルノルノ』



 ミアリナが静かに言った。



『婚約したからと言って、すぐにあっちに行く訳じゃないわ。もうしばらく一緒にいれるから大丈夫よ。それにルノルノは賢い子だから、私があっちに行く頃にはちゃんと理解出来るようになるわ』



 ミアリナは優しく諭すように言った。それでもルノルノは涙目で首をぶんぶんと横に振った。



『ルノルノ!』



 ロハルが少し強い口調でルノルノのわがままを咎めた。


 ルノルノの目から涙が零れ落ちる。拗ねた表情で俯いたが、黙らせるには十分だった。


 黙り込んだルノルノを見てリエルタは困った顔をしていたが、その場を取り繕うように明るく言った。



『それじゃ、今日から花嫁修行しないとね』



 婚約をしたからと言ってすぐに結婚になる訳ではない。


 婚約から二から三年、長い場合だと五年ぐらいは母親について花嫁修行をする。そこで料理や牛や馬の乳の絞り方、各種乳製品の作り方、馬乳酒や蒸留酒の作り方、縫い物の仕方など遊牧民における女性の仕事を教わる。


 そして花嫁修行が終わってから晴れて結婚となる。これはラガシュマ族に限らず、遊牧民族共通の習慣である。


 しかし本当に大変なのは結婚してからで、今度は相手の部族の習慣や文化を身に付けなければならない。よって結婚してから一年から二年は相手側の母親に色々教わることになる。だから実際妻として独り立ちするまでに大体四、五年はかかる。


 十五歳のミアリナが婚約するのは決して早い訳ではない。



『まぁ、ミアリナはそろそろ結婚しても良い歳だからな。とりあえずは会ってみなさい。悪い話じゃないから』



 父親の勧めに、ミアリナは頷く他なかった。


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