第一部 帝都編
第1話 ラガシュマ族の朝
年月は少し遡り、アルシャハン暦九百九十七年三月。
三月、と言っても北に位置し、標高も千メートルから二千メートルぐらいあるタンジス高原の気温は低い。
日中でも四度か五度ぐらいまでしか上がらず、夜は零下十度ぐらいにまで下がる。それでも零下三十度を下回る真冬に比べるとまだ肌暖かく感じられるようにはなっている。
遊牧民族にとって、冬は忍耐の季節だ。どの民族も風をいくらか凌げる山の麓の冬営地に移動し、そこで冬を過ごす。
ラガシュマ族の冬営地はラガ山を望む麓の広大な草原にある。ラガ山は五千メートル級の山々が多いクランジル山脈系の中で四千メートルと少し低いが、バヌール川という北から南のエルスタン湾へと流れる大河の水源が存在する。
あと一か月もすれば雪解け水で増水し、濁流となるため近づけなくなる。しかしその流域は豊富な水源のおかげで草の育ちも良く、遊牧に適している土地であった。
ラガシュマ族がその冬営地に篭るのは十月頃から四月上旬までだ。四月上旬ともなると気温もだいぶ上がり、家畜も本格的に出産シーズンに入っていく。だからこの頃にラガシュマ族伝統のエル・キ・セラン・ヒルヌ祭りが行われる。これはラガシュマの言葉で「春の恵みに感謝する」という意味で、略してエル祭りと呼ばれるラガシュマ族の一大行事である。
ラガシュマ族が全員集まって集落を形成するのは冬の間だけであり、このエル祭りが終わると世帯ごとに所有するそれぞれの春営地に散っていく。
主に干し草で家畜の世話をする冬と違って、春は新しい牧草が芽生える時期である。みんなが一か所に固まってしまうとその貴重な牧草を根こそぎ浚ってしまう恐れがある。
だからみんな散らばって一か所に固まらないようにする習慣になっているのだが、そうは言うもののラガシュマ族の今の人口は九十七人、世帯数も二十五世帯しかない。他の部族に比べれば草を食べ尽くす心配はそれほどないので活動範囲も小さくて済んでいる。
*
『朝よ。ルノルノ、起きなさい』
優しい声に促されて、羊毛の毛布の中からルノルノは這い出た。それと同時に誰かが外へ出て行ったのだろう。入り口の扉が開き、冷気がマフの中を駆け巡った。マフとはラガシュマ族が使う壁が分厚いフェルトで出来た移動可能な組み立て式住居のことである。
『寒っ……』
もう一度毛布の中に潜り込む。
マフは直径六メートルほどの円形をしていて、ストーブと兼用のかまどが真ん中に置かれているので均等に暖かくなる構造をしている。
このかまどの火と羊毛の毛布の組み合わせは最強だとルノルノは思う。厳冬もこの二つがあれば十分に乗り越えられる。そして少し気温の上がったこの季節、この少し過剰な暖気はさらなる眠気を誘うものだ。それを感じるのが至福の瞬間でもある。
再びまどろみに身を任せかけた時、今度は強引に毛布を引き剥がされた。
『早く起きなさい!』
毛布にしがみつこうとして失敗し、寝床から情けなく落ちる。顔面から落ちなかったのは幸いだが、したたかに腰を打ちつけた。
『うぅ……痛い……』
目の前には腰に手を当てて立ちはだかっている姉のミアリナがいた。
『もう! そんなだらしないといいお嫁さんになれないわよ?』
少し強い語気だが語尾が笑っている。なんだかんだ言ってミアリナは優しい。ルノルノ自身、ミアリナが真剣に怒っているところなんて見たことがない。
『んー……その時はお姉ちゃんと結婚するー』
ぎゅーっとミアリナの胸に顔を埋めるように抱きついて甘える。
ルノルノはミアリナが大好きだ。
その黒く艶のある髪、白い肌、深い黒の瞳、明るく優しい笑顔、お淑やかな所作。何を取っても姉は完璧だと思っている。実際、ミアリナは集落内では美人で気立ての良いお嬢さんと評判だ。ルノルノにとって自慢の姉である。
『……もう、ルノルノは本当に甘えん坊ね。私もそのうちお嫁に行っちゃうのよ? そんなことでどうするの』
『じゃあ、お姉ちゃんについていくー』
にこっとミアリナを見上げて笑う。ミアリナは少し呆れたように笑った。
ルノルノは少し茶色がかった髪に白い肌、黒く大きな瞳をしている。目鼻立ちもはっきりしていて華やかな顔だ。近所からは姉に似ているが姉よりも快活で明るい女の子という評判である。
ルノルノがミアリナのことを溺愛しているように、ミアリナもこのルノルノのことを溺愛していた。だからこの笑顔を見ると、ついつい許してしまうのである。
『そういう訳にもいかないでしょ。早く服着なさい』
『えー』
『ルノルノもミアリナも馬鹿な話をしてないで、仕事仕事! ルノルノもいつまでもそんなみっともない格好してないで早く着替えなさい! 歯も顔も洗ってらっしゃい!』
母親のリエルタが割り込んできて早く動くように急かす。こんなやり取りするのがルノルノの家の日常だ。
『はぁい』
ルノルノはうーん、と伸びをすると水瓶の水を手桶で一掬いして顔を洗う。きんきんに冷えているので一気に目が覚めた。次に岩塩を主成分とした歯磨剤を口に含み、歯木を噛んで歯を磨いた。
『うわ……』
『どうしたの?』
『この前からぐらぐらしてた奥歯が抜けちゃった』
『あら、おめでとう。また一つ大人になれるわね』
リエルタは羊肉の脂肪の欠片をルノルノに渡した。ルノルノはその脂肪に抜けた奥歯を包んだ。
ルノルノはラガシュマの言葉でルシュツという寝間着を脱ぎ、下着姿になる。ラガシュマ語でルーシェクがシャツ、ルサリュンがショーツである。その上にルサックというラガシュマ族特有のズボンを履き、シェクラというラガシュマ女性が着る厚手の着物を纏った。どちらも羊毛で編んだ生地で出来ていて膝上まである裾には民族紋様の刺繍が入っている。それをやはり羊毛で編んだヒロンという帯できゅっと止めた。
『お父さんは?』
恐らく先ほど出て行ったのは父親、ロハルだったのだろう。マフの中に彼の姿は無かった。
『湖に氷取りに行ったわよ』
湖とはラガシュマの冬営地から南へ少し行ったところにあり、ラガシュマは自分達の言葉で「恵みの水」を意味するリュセラン湖と呼んでいる。
『そっかぁ』
玄関に置いてあるパロというラガシュマ族の靴を履いた。この靴も羊毛製だが、靴底だけ革が縫い付けられていて、馬に乗りやすいように出来ている。
『それじゃ、いってきまーす』
『ちょっと待って』
入り口近くに立て掛けてある鋤と大きな布袋を手に取って外に出ようとすると、ミアリナがそれを止めた。
『カンシェも着けなさい。それとおばあちゃんのお守りも持ってないでしょ?』
カンシェとはラガシュマ族の女性が頭に巻く民族柄が入った鉢巻である。
お守りはルノルノが幼い時に亡くなった祖母がくれた形見で、革を編んで作っただけの簡素な首飾りである。
『カンシェなんて……どうせ誰も見てないよ』
手渡されたお守りに首を通しながらそう言うと、ミアリナは首を横に振った。
『だめ。どんな時も身嗜みはちゃんとしなさい。女の子なんだから』
面倒くさそうにする妹の小さな頭をくりくりと撫でると、無理矢理カンシェを着けさせた。
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