第0話 この世界の形
この世界には七つの大陸が存在する。
その中の一つ、アイミスト大陸は総陸地面積の約四割以上を占めている最大の大陸である。
そんな大陸の中央からやや西寄りにかけて、タンジス高原という標高千メートルから二千メートル前後の極めて広大な高原がある。この高原は南東部にこそアヴェル砂漠という砂漠が広がっているが、それ以外の大部分は草原ステップが占めている。この高原の北の一部から西にかけてクランジル山脈という標高五千メートル級の山々が連なっており、西洋世界との境界線を成している。
アルファーン帝国の国土は、このタンジス高原がその北半分を占めている。南半分はなだらかに平野へと移行し、アルモ海という海に面している。
この南のアルモ海から帝国の国土の四分の一ぐらいの面積を抉り取るような形で巨大な湾がある。これがエルスタン湾である。その湾の北西側、より正確に表現するなら北北西側に帝都メルファハンはある。
アルファーン帝国の前身であるニフニト帝国の時代、メルファハンは商業都市の一つであった。ニフニト帝国の帝都はメルファハンから西へ五百キロメートルほど離れたナークルという街で、東西交易路の要として発展していた。
余談だが、ニフニト帝国もアルファーン帝国も築いている民族はトゥルグ人であり、公用語はトゥルグ語である。だから両帝国ともニフニト・トゥルグ帝国、アルファーン・トゥルグ帝国と言うべきかもしれないが、多民族が暮らすこの国の正しい形を伝えているとは思えないので、ニフニト帝国、アルファーン帝国と呼ぶことにする。
アルシャハン暦八百三十五年。第八代ニフニト皇帝としてスジャール二世が即位した。ところが彼は政治に興味を示さず、伯父にして大宰相であったエルメト・アルファーンに政治の実権を全て委ねてしまい、自分は絵画や建築、詩に没頭してしまうという有様であった。
このおかげでナークルは学術や芸術文化の中心地としてその地位を確立していくのだが、それはまた別の話である。
大宰相エルメトの家であるアルファーン家は代々メルファハンの太守であった。政治的権力を掌握したエルメトは自身の領有するメルファハンの発展に注力し始めた。
八百三十八年からメルファハンの東西交易路の整備を開始した。エルスタン湾に貿易船を定期的に運航させ、各交易が滞りなく出来るようにした。
さらにメルファハン内の中央市場を整備して拡張し、各種金属や綿、絹、コーヒー、茶、香辛料、そして奴隷など全ての交易品がメルファハンで取引されるように計らった。大規模な宿場を設け、さらには技術者を呼び寄せて製鉄、製糸などの工業も盛んに行わせた。
これら政策によってメルファハンは目覚ましい発展を遂げ、次第に人口においてもナークルを超えるようになった。
エルメトを筆頭とするアルファーン家はその経済力および政治力を背景に勢力を拡大し、ついには軍の実権ですらその手中に収めた。
エルメト自身は八百五十二年に六十七歳でその生涯を閉じたが、その後を継いでメルファハンの太守となったラナド・アルファーンは父親譲りのリーダーシップを発揮した。
八百六十八年、五十八歳となったラナドは求心力を失ったスジャール二世を廃位させ、自ら帝位についた。
こうしてアルファーン帝国が誕生し、メルファハンはその帝都となった。
初代のラナド一世と二代目のカージャル一世は制度の整備、内政の安定化を主に努めたが、八百八十三年に即位した三代目シャウラン一世は積極的な拡大政策を打ち出し始めた。
この頃のアルファーン帝国の北半分の草原ステップ地域はまだアルファーン帝国の領土ではない。
大小様々な遊牧民族が生活しているだけで、言うなれば小さな遊牧国家が乱立しているという状態であった。この草原ステップ地域に生活している遊牧民族で共通しているのは言語であり、モルテナ語族に属していた。各部族はお互い外交し、時に協力し、時に反目していたが、概して平和裏に過ごしていた。
ところがアルシャハン暦九百年前後からこの草原ステップ地域にタジール族という遊牧騎馬民族が大移動して来た。
彼らは、元々はアルファーン帝国の東にあるアヴェル砂漠よりもさらに東の大地を拠点にしていた遊牧民族で、ジラド語族というまた別の言語グループに属する。
当時東の大地に勃興したジュチ帝国との勢力争いに敗れたため、豊かな土地を求めて西へ西へと大移動して来たのである。彼らの勢いは凄まじく、タンジス高原の草原ステップ地域に元々住んでいたモルテナ語族系の遊牧民族を次々にその支配下に置いていった。そして九百二年、遊牧民族国家のタジールを建国した。
この頃のアルファーン皇帝は四代目クリムモア一世である。
タジール国はアルファーン帝国の北部を
ところがこの頃、クリムモア一世の対外政策は南の海、アルモ海に向いていた。エルスタン湾はアルファーン帝国独自の海として航路は整備されていたが、その外海であるアルモ海における東西を結ぶ航路はイリノア王国というアルファーン帝国の南西部に位置する王国によって独占されていた。
これはアルファーン帝国が荒い外海を航行出来るだけの巨大で高性能な船を有していなかったことに原因がある。
このアルモ海の交易路は南海交易路と呼ばれ、莫大な利益を産んでいた。
そしてこのクリムモア一世の時代、アルファーン帝国はアルモ海を航行出来るだけの船の建造に成功し、南海交易路の制海権を巡ってイリノア王国と争うようになった。
それだけに北に割く軍備・予算は十分とは言えず、対策は後手に回ってしまっていた。
さて、タジール族の支配した民族の中にラガシュマ族という遊牧騎馬民族がいる。
いつ滅んでもおかしくないぐらいの少数民族で、当時の人口は百五十人程度だった。タジール族の二百万人という人口に比べると、その数がいかに少ないかが分かる。
古くからタンジス高原の北に
系統としてはやはりモルテナ語族に属しているが、文字を持たず、古いモルテナ語をベースとしたラガシュマ語という独自の言葉を話す。同じモルテナ語族に属する民族は互いの言葉をある程度理解するものだが、ラガシュマ語はやや特殊で、同じモルテナ語族、例えばユルヴァハン族やカルファ族、ジュキユス族からしても、その言葉は聞き取りにくいという。
馬術に関してはどの部族よりも洗練されており、男女問わず三歳の頃から馬に乗り始め、五、六歳になる頃には自由に駆けるようになる。まさに「歩くよりも先に馬に乗り出す」と噂される民族である。
剣術にも長けており、これも男女問わず幼い頃から叩き込まれる。しかしその本質は極めて平和的であり、滅多なことでは戦いはしない。
これはタジール族の来襲に対してもそうだった。
年に四回、家畜やフェルトなどの羊毛を献上せねばならなかった。若者は労働や戦争に駆り出された。時には若い女性までをも献上せねばならなかった。タンジス高原に古くから住む多くの部族にも言えることだが、白い肌、深淵な黒く大きな瞳、艶のある黒か華やかな茶色の髪を持つ彼女らはタジールの権力者に喜ばれる「献上品」であった。
そんな屈辱的な生活を強いられても、地道に耐え忍び、自分達の文化・風習を守り続けた。
ラガシュマ族達が支配されてから四十年余り経ったアルシャハン暦九百四十三年、八代目皇帝としてシャウラン三世が即位した。後世の歴史家からは
この頃にはクリムモア一世から進めて来た南下政策が実を結んでいた。海軍力を増強させ、その威力を持って南海交易路を手中に収めることに成功した。
南が片づいたこともあって、シャウラン三世の目は北に向けられた。これまでにも遠征軍の派遣がなかったわけではないが、どちらかと言うと防衛戦的な意味合いが強く、本格的に攻勢に転じたのはこの頃からである。
ただ、シャウラン三世にとってタジール国征服は通過点に過ぎなかった。
彼の真の目標はそのさらに向こう、クランジル山脈も超えた北西に広がる帝国、エルベ帝国であった。
エルベ帝国は言葉も宗教も人種も異なる。エルベ帝国から西の国々はアルファーン帝国とは異なる文明圏と言っていい。
タンジス高原からエルベ帝国に抜けるには、クランジル山脈が横たわっているため、そう簡単にはいかない。抜けるための回廊はタンジス高原の北西部にあり、アーシュイン回廊と呼ばれていた。この名称はその回廊にエルベ帝国が築いた要塞都市、アーシュインの名前にちなんでいる。この要塞都市は堅牢であり、難攻不落と言われて来た。
シャウラン三世はこの要塞都市に狙いを定めていた。ここを落とせば、エルベ帝国侵攻の大きな足掛かりになる。そのためにはタンジス高原に居座るタジール国の存在がどうしても邪魔であった。
この強大な遊牧国家と和睦して同盟を結ぶという選択肢もなかった訳ではない。しかし略奪行為を繰り返して来た彼の国との和睦はシャウラン三世にとって耐え難い屈辱であった。
シャウラン三世は三つの親征を含む七つの戦いに勝ち、タジール国を追い詰めて行った。
そして九百四十八年、地方都市リンデルムの郊外で行われたリンデルムの戦いでタジール国軍に致命的な損害を与え、国王にして族長であるマウテウを捉えた。マウテウは処刑され、その他に捉えられた者達も奴隷となり、アルファーン帝国に取り込まれて行った。辛うじて生き延びた残党も追撃を受け、散り散りになってしまった。こうしてタジール国は滅んだ。
支配を受けていたモルテナ語族の人々も過酷な運命を背負う。彼らを待っていたのは解放ではなく、アルファーン帝国の支配であった。各部族とも辛うじて自治は認められたが、活動範囲を狭められ、クランジル山脈に近い、より北の方の一区域に押し込められた。
ラガシュマ族においては元より山脈の麓に住んでいたので活動範囲が制限されるようなことはなかった。しかし先の戦いで多くの戦死者を出しており、百五十人ほどであった人口はわずか百人足らずまで減少した。
遊牧民達の受難はそれだけでは終わらなかった。
リンデルムの戦いの三年後の九百五十一年の冬、タンジス高原は前例にない冷害に見舞われた。
そしてさらに翌九百五十二年の夏には大干魃が訪れた。
これらの自然災害で多くの遊牧民が大量の家畜を失い、食糧難に苦しんだ。その結果、遊牧では生活が出来なくなってしまった人々が難民となり、メルファハンを始め、各都市に押し寄せるに至った。
その数はアルファーン帝国内全土で五十万人に上る。
多くの若い男女が身売りをし、奴隷や売春婦、傭兵に身を落として行くことになった。中には犯罪組織を形成する者もいた。いずれにせよ彼らの流入の結果、各都市の治安が傾いたとまことしやかに囁かれた。
ラガシュマ族からは難民は出なかった。これには色んな原因が挙げられるだろうが、やはりもともと寒さの厳しい北部に住んでいたため、その対応に慣れていたことによるところが大きいだろう。
いずれにせよ、タジール国滅亡と未曾有の自然災害という二つの出来事は、結果的に遊牧民族の地位を貶めるには十分であった。
アルファーン帝国人にとって遊牧民族の違いなどあって無いようなもので、何族だろうが何語族だろうが遊牧民族は「野蛮な敵国」であり、「奴隷」であり、「売春婦」であり、「犯罪者」であった。こうして遊牧民達はアルファーン帝国の中では被差別民族という立場に追い込まれてしまった。
余談だがシャウラン三世の要塞都市アーシュイン攻略は叶わなかった。
アルファーン帝国とタジール国が戦争を始めた時、エルベ帝国も手をこまねいて見ていた訳ではない。警戒を強め、動向を探り、軍備を進め、アーシュインの強化に努めていた。シャウラン三世の思惑は見透かされていたのである。
アーシュインを巡っての戦いはシャウラン三世の治世の間だけでも三度あった。その後九代目ハッサル一世の時に二度、十代目ハッサル二世の時に三度攻略されたが、いずれもエルベ帝国の守り勝ちで終わっている。
そして時は流れ、九百八十六年にエルベ帝国ではマレイス二世が即位し、九百八十九年、アルファーン帝国では十一代目皇帝としてシャウラン四世が即位した。
この二人の治世下では毎年のように苛烈極まる戦いが繰り返され、
そして千年三月。マレイス二世はアルファーン帝国を討伐すべく、軍を起こした。その兵力数六万。この軍はアルファーン帝国の前線要塞都市ライツを占領した。
この攻勢に気を良くしたマレイス二世は翌年の千一年四月、要塞都市ライツを足がかりにアルファーン帝国領侵攻を企てた。
ライツに集結したエルベ帝国軍は総兵力数十二万。かつてない大攻勢であった。
アルファーン帝国皇帝シャウラン四世もそれを迎え討つべく軍をかき集めたが、その数は八万に過ぎなかった。
圧倒的に不利な状況下、戦争は始まった。戦場はタンジス高原の西の端、要塞都市ライツの郊外であった。
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