第49話【決戦】さらば、平穏な日々
「七瀬さん、話したいことがあるからちょっといいかな」
放課後になって弛緩した空気が漂う教室は俺の一言でざわつきだした。
俺と七瀬さんが兄妹であることは明かしていないし、学校では以前と変わらない関わり方をしているから、俺の方から七瀬さんに話し掛けることはとても珍しい。
まして、こんなふうにどこかに連れ出して話をしようなんてことは今までしたことがない。
どうして、こうやって七瀬さんを連れ出そうとしているかといえば、相変わらず家では俺が話しかけると何か理由を付けて避けられてしまうからだ。
「よ、四元君、あの、えっと、この後、那由多と一緒に行くところがあるので、今日はちょっと――」
「あれー、そんな話してたっけ? 今日は特に予定ないから四元が話があるならそっち優先していいよ」
昨日と同じ様なにやにやとした悪戯な笑みを浮かべている様子を見ると、春原さんはやっぱり何か知っていそうだ。
ちなみに春原さんには昨夜のうちに今日の放課後に七瀬さんと話をするからと協力をお願いしていた。
「ありがとう。春原さん。七瀬さん、ここで話すのもなんだからちょっと場所を変えようと思うんだけど」
俺は七瀬さんの手を取るそのまま教室の外に出るべくドアの方に向かう。
「えっ!? ちょっと、四元君!?」
「ん? どうかした」
振向くと空いている手で胸を押さえている七瀬さんが俯きながら消え入りそうな声で呟く。
「手つなぐの……」
七瀬さんって、潔癖症で手をつなぐのダメだったかな。一応直前に除菌ティッシュで綺麗にはしたのだけれど。
「ごめん、嫌だった」
つないでいた手を反射的に緩めようとしたところ、逆に七瀬さんの方がぎゅっと俺の手を握ってきた。
「違います。初めてだったからちょっと驚いただけで」
言われてみれば、今まで七瀬さんと手なんかつないだことなかったな。いきなり出過ぎたことをやってしまった。
そう思うと手をつなぐという行為が急に特別なものに思えてきて背中が熱くなってくる。
「……もう、大丈夫です」
一呼吸置いた七瀬さんは顔を上げて言った。
七瀬さんと手をつないだことによって、ざわついていたクラスメイトの声はより大きくなり視線が一気にこっちに集まるのがわかる。
あー、これで俺の波風立たない平穏な日々は終わりだ。きっと、後で教室に戻ったらいろいろ聞かれるんだろうな。
でも、今はそんなことよりも優先すべきことがある。
まあ、俺にとって平穏な日々を望むことっていうのは、条約でも法律でもなく、ただのガイドライン程度のものだ。破ったからといって罰則があるわけでもない。
「四元、四元」
教室から出ようとしたところでいつもの甲高い声に呼び止められて振り向くと眉間に皺を寄せた鳥嶋が腕を組んで立っていた。
「お前がルビコン川を渡ったとしても俺とお前はずっと童貞友達だかrっ」
「あれ? 鳥嶋君、大丈夫。急にお腹を押さえて。そんなに苦しいのなら保健室に連れて行くわよ」
うずくまる鳥嶋の背中を香澄がさすっているが、俺は香澄の高速の右手が喋っている途中の鳥嶋の鳩尾を捉えているのを見た。
香澄はこっちをちらりと見て、目で早く行けと促す。
きっとこれは貸しということだろう。とりあえず、フルーツ牛乳を一週間は奢らされそうだ。
「鳥嶋さん、大丈夫でしょうか」
隣を歩く七瀬さんが尋ねる。
「ああ、俺も何度かあれをくらったことはあるが、命に別状はない」
「それって、あまり大丈夫じゃないやつですよね」
「鳥嶋なら大丈夫な……はず」
「間が重いです」
鳥嶋のおかげで久しぶりに七瀬さんと少し会話ができた。そこのところは感謝しとく。
一度手をつないで歩き始めると、どのタイミングで離していいかわからない。
結果として、俺と七瀬さんは手をつないだまま下校する生徒や部活に行く生徒で賑やかな放課後の廊下を歩くことになる。そうなれば当然俺たちの様子を見た他のクラスの生徒までがこちらに視線を向けざわざわとしだす。
ええい、もうここまで来たらあとは一緒だ。鳥嶋が言うようにルビコン川を渡ってしまったのだから。
教室棟を出て渡り廊下を進んで旧校舎へ、目的地は俺の安息の地だった屋外階段の踊り場。
あの時、七瀬さんに助け舟を出した場所であり、一緒にお弁当を食べた場所だ。
「急にこんなところまで連れてきてごめん」
踊り場についたタイミングで自然とお互いに手を離した。
爽やかとは言い難い風が七瀬さんの髪を揺らす。
ここで話をしようと昨日から決めていたし、話す内容も何度もシミュレーションした。それなのにこの踊り場に二人でいるだけで次の言葉がすぐに出てこない。
「いいえ、私も四元君とちゃんとお話をしないといけないと思っていたので」
「七瀬さんが俺と?」
最近、ずっと避けられていたはずなのに話をしないといけないとはどういうことだ。
まずい、俺が想定していた展開から既に外れ始めている。
「あ、あの……、ごめんなさい」
丁寧に、そして深く頭を下げる七瀬さん。
「ごめんなさいって、どうして」
「私、最近ずっと四元君が話してかけてくれてもちゃんと話せなくて」
俺が聞こうと思っていたことを先に言われてしまった。
「やっぱり偶然じゃなかったんだ。でも、どうして?」
「それは……、それは――」
七瀬さんは目をぎゅっとつぶって、握られた手は力が入り過ぎているのか小さく震えている。
「ごめん、
「そんなことないです。四元君が何かしたとか、四元君のことが嫌いとかじゃないです」
七瀬さんが間髪入れず答える。
「よかった。それならそれ以上理由なんか言わなくて大丈夫」
誰だって言いにくいことや自分の気持ちを上手く言語として相手に伝えられないこともある。それを無理矢理言わせるのは酷というものだ。
それにしても思いもしない形で俺が七瀬さんと話したいことが話せてよかった。ここで七瀬さんが俺のことを嫌っていたりしたならもう一つの話ができないところだ。
俺は一度肺に残っていた空気をゆっくりと吐き切って、新鮮な空気を取り込んでから、七瀬さんの目を見て口を開いた。
「……七瀬さん、俺も七瀬さんにこれからの俺たちのことについて話したいことがあるんだけど」
「これからのこと……」
俺の言葉を咀嚼すると再度姿勢を正す七瀬さん。
お互いの間にある空気がさっきよりもずっと張りつめたものになったのがわかる。
「そう、俺と七瀬さんの関係というか距離感というか」
「そ、それって、私が四元君とちゃんと話せなかったから距離を取りたいとかですか」
七瀬さんの声が震え、声色から温度が失われていく。
「ううん、逆かな」
「逆!? 逆って、そんな本当に!」
声色に一気に温度が戻り、七瀬さんは両手を口元に当てる。
「あぁ。だから、教室とかじゃなくてここに連れて来たんだ」
「わ、わかりました。でも、ちょっと待ってください」
そう言うと、七瀬さんはさっきの俺のようにゆっくりと深呼吸を始めた。
「はい、OKです。お願いします」
「七瀬さん、これからは――」
首から上は熱いのに手は汗ばんで冷たいのがわかる。
でも、ここまで来たら言わなくては、平穏な日々が終わり、俺と七瀬さんの関係が変わるかもしれないとしても。
「学校でも家と同じように接していいかな」「こちらこそよろしくお願いします」
「「…………」」
俺と七瀬さんの間には風がそよぐ音と学校の前の道を通るパトカーのサイレンが響く。
俺が話している声と七瀬さんの返事が被っていたけれど大丈夫だろうか。
「……家、同じよう」
言葉を覚えたてのロボットように呟く七瀬さん。
「そう、今まで学校では家と違って、家族になる前と同じような感じで接していたけど、そうじゃなくて、普通に話したりみんなで一緒にご飯食べたりとかしたいと思って。だから事前に許可を得た方がいいっ――」
七瀬さんが俺のシャツを掴んで上下に引張り出した。
「全く、全く、本当に全くです。そんなことこんなところでいちいち聞かなくてもいいんです。それも許可なんて他人行儀な言い方して」
「いやいや、こういうの大事だろ。七瀬さんの周りに男子の友人なんかいないだろ。そこに俺がいきなり入っていけば、何事と騒ぎになる。そうなれば、七瀬さんにも俺との関係についていろいろ聞かれるだろうし」
「聞かれたってなんてことはないです。迷惑だなんて思いません」
俺のシャツを掴んだまま俺の胸に頭をこつんと当てる。
「えっと、つまり友達申請OKということでいいんだよな」
「……はい、友達申請を承認しました」
「ありがとう。ところで、さっき俺が話した時に同時に返事してたけど、どうして、あんなフライング気味に返事っ、痛っ」
まさかこんなところで、七瀬さんから俺の両横腹へのデュクシが炸裂。
「全く、そーゆーところですよ、そーゆーところ」
そう言うと七瀬さんが再び俺の手を握った。
「さあ、話が終わったなら帰りますよ。鞄とか教室に置きっぱなしですし。あと、友達になった記念でこのあと那由多や香澄さんや鳥嶋さんも一緒にカフェでも行きましょう。もちろん、四元君の奢りで」
「えっ!? ちょっと、俺の奢りって! ねえ、友達ってそんなふうに全員分奢ったりしないと思うけど」
「ダメです。今日は四元君の奢りです。本当に四元君は罪な人です」
七瀬さんは俺の手を引きながら階段を降って行った。
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