第32話【幕間】七瀬クロエの備忘録③
ベッドに倒れ込む。
めまいと倦怠感がある。
呼吸を意識的に整える。
きっと血圧が下がったんだ。今までもこういう症状が出たことはある。
普段から血圧は平均よりも低く、疲れやストレスが増えたりするとこういう風に体調が悪くなることがある。
最近の引越で環境が変わって気づかないうちに疲れていたということはあると思う。
でも、きっと引き金になったのは、私が四元君の誕生日を忘れていたことに気付いたからだ。
四元君の誕生日は顔合わせの日にどのくらいお互いに兄と妹の差があるかという話になった時に聞いて、ちゃんと手帳にも書いていたのに他のことと重なってすっかり忘れていた。
でも、それは言い訳で結局なところ私は家族である四元君を大切に思っていないのかもしれない。
四元君は私のことを大切に思ってくれているのに……。
香澄さんの家でお菓子を作っている時に、もうすぐ出来上がるからということで、四元君たちに声を掛けに行った。玄関を出て、お庭を横切るために渡り石の上を進み、母屋の隣りにある武道場に向かうと、武道場の大きな窓が開けられていて、中にいる四元君たちの話し声が聞こえてきた。
「――とにかく、俺は七瀬さんのことを大切にしたいと思っているんです」
中にいるのは四元君と香澄さんのお祖父さんの源隆さんだけのはず。その二人が話していて、四元君が私のことを大切にしたいってどういう意味なのだろう。
どうしてそういう話をしているのかわからないのに自分の顔がカーッと熱くなっていくのがわかった。
まずい、今、声をかけたら偶然だけど盗み聞きしていたのがばれるかもしれない。そう思って、赤くなった顔が少し落ち着くのを待ってから四元君たちに声を掛けた。
香澄さんはちゃんと四元君の誕生日を覚えていて、いろいろ考えてあのプレゼントを選んだというのに、私は何も用意していない。
今からでは何も用意できないかもしれない……。
身体が少しずつ温かくなってきて血圧が戻ってきたのがわかる。めまいはもうしないし、倦怠感もだいぶなくなってきた。
残っているのは罪悪感だけだ。
コンコンコン
「クロエ、雅紀君から聞いたけど体調大丈夫? 入っていい?」
「うん、大丈夫。入っていいよ」
横になっていると必要以上に心配をかけると思って、ベッドに座り直した。
お母さんは私がいつも使っているマグカップにミルク多めの紅茶を淹れて持って来てくれた。
「顔色は良さそうだけど――」
マグカップを机の上に置くと、私の前髪を上げておでこに手を当てた。
「熱も無さそうね。もう、大丈夫?」
「うん、ちょっと血圧が下がっただけだと思う。心配かけてごめん」
「やっぱり、急に環境が変わったから疲れやすくなっているのかしら。明日は休みなんだからゆっくりした方がいいんじゃない」
マグカップを手渡してくれたお母さんはそのまま私の隣にそっと座った。
「でも、私、まだ何も用意してないから……」
「用意って、何の用意」
「明日、雅紀君の誕生日なのに何も用意してなくて……、香澄さんはちゃんと覚えていて雅紀君のことよく考えたプレゼント用意してたのに、私はすっかり忘れていたから……」
お母さんが優しく私の背中を撫でると今まで我慢してきたものが溢れてしまって、頬を涙が伝う。忘れていたのは私なのだから優しくなんてしないで欲しい。
「クロエは雅紀君のこと大切に思っているのね。まだ、誕生日の前なのにそんなにいろいろ考えて。それなら、明日一緒にプレゼント買いに行ったらいいじゃない。二人でお店を回っていいものを見つけるというのもいいものよ」
「でも、明日はお母さんと一緒に私も――」
「いいのよ。そっちは。明日じゃなくてもまた日をみて会いに行けば。それにきっとあの人なら雅紀君と一緒にプレゼントを探しに行けって言うわ」
「……うん、わかった。あとで雅紀君に声を掛けて誘ってみる」
淹れてくれた紅茶に口を付けると、ミルクと茶葉の香りが広がって気持ちを落ち着かせてくれる。
「雅紀君を誘うのは顔を洗って少し時間が経ってからにした方がいいわよ。今の顔で誘ったら逆に心配されるから」
「わかってる。……ありがとう」
「最初からありがとうって言えばいいのに素直じゃないわね」
そう言うと、そのまま私を優しく抱きしめてくれた。
このタイミングで抱きしめるなんてずるい。
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