第29話【美味】鳥嶋シェフのガトーショコラ

 七瀬さんがお菓子がもうすぐできると伝えに来てくれたので、源隆さんとの稽古を終えて、十文字ヶ丘家の純和風な母屋に戻ることにした。


 玄関の扉を開けると、俺の部屋よりも広い玄関にはほんのりとチョコレートの香りがして、それがキッチンに近づくにつれて濃くなっていった。


 今のところ焦げた臭いがしていないから香澄特製のダークマターは作られていないようだ。


 キッチンに入ると流しでは香澄が使い終わった調理器具を洗っていて、七瀬さんが焼き上がったケーキに粉糖をかけて、今日もコック帽を被った鳥嶋がトッピング用の生クリームを準備している。


 なるほど、この役割分担なら上手くいきそうだ。


「生クリームまで添えてけっこう本格的だな」


「やっと、食べる専門が戻ってきたわね」


 ちょうど洗い物が一段落したのか香澄が流しの水を止めて言った。


「本当に剣道着でやっているんだ。雅紀はその顔だから結構似合うね」


「それ褒めてないだろ」


「そんなことないですよ。私も四元君のその姿はなかなかイケてると思います」


「クロエちゃん、そんなに褒めちゃダメよ。クロエちゃんにイケてるなんて言われたらすぐに調子に乗るから」


 みんな好き勝手なこと言ってるな。


 俺は道着を着ると気持ちが引き締まる気がするからけっこう気に入っている。ちなみに香澄も稽古をするときは道着姿になるのだけど、香澄は凛とした雰囲気があるから俺なんかよりもずっとさまになる。


「ところで、鳥嶋シェフ、このチョコレートケーキはもう完成なのか」


「NO,NO,チョコレートケーキじゃない。ガトーショコラ」


 急に謎のインチキ西洋人風なしゃべり方になる鳥嶋。


「ガトーショコラってチョコレートケーキの一種じゃないのか」


「YES,チョコレートケーキは総称。ガトーショコラ、フォンダンショコラ、ブラウニーなどなどいろいろあります」


「鳥嶋君、そのキャラ絡み辛いからそろそろ終わってもらっていいかしら」


「香澄、助かった。俺はいつまでスルーし続けるか悩んでいたところだ」


「OH,ジーザス」


 鳥嶋のおふざけはいつもの如く香澄にバッサリと斬られる。

 この二人意外と息があっているな。


「そんな可哀そうですよ。今日の一番の功労者は鳥嶋さんですから」


「YES,ありがとう七瀬さん。そうやって、僕のことを評価してくれるのは七瀬さんくらいだよ」


 ウインクにサムズアップのポーズを決める鳥嶋のキャラの濃さにさすがの七瀬さんもどう接していいのかわからない様子で唖然としている。


「鳥嶋、七瀬さんが引いているぞ」


 七瀬さんの表情を見てさすがにヤバいと思ったのか、鳥嶋はコホンと一つ咳払いをして、

「とにかく今日はガトーショコラを作ったところ。さっき僕たちは少しだけ試食したけどけっこう上手くできたと思うよ。雅紀もちょっと食べてみて」


 七瀬さんが小さな皿に盛られたガトーショコラを渡してくれた。俺はその一口大のガトーショコラを手で摘まんで食べた。


 口に入れた瞬間に濃厚なチョコレートの香りと甘さが口にいっぱいに広がり、まだ焼き立ての温かさが残っているから、その熱でガトーショコラが口の中で溶けているように感じる。そのままでも十分に美味しいが鳥嶋がトッピングしていた生クリームを付けるとさらに美味しそうだ。


「これ、マジで美味いな」


「でしょ。でしょ。ちょっとは僕を見直した」


 俺はうんうんと頷きながら口に残ったガトーショコラの余韻を味わった。


 たしかにこれなら作ってもらう度にたくさん食べてしまい年頃の女の子なら体重を気にしてしまうだろう。鳥嶋のお姉さんの気持ちがちょっとわかる。


「でも、今日は僕だけじゃなくて、七瀬さんと十文字ヶ丘さんも手伝ってくれたからね」


「香澄が手伝っているのにダークマターにならないなんて奇跡だ」


「誰がダークマター製造機よ」


「誰も製造機とまでは……」


 思わず香澄といつも一緒に遊んでいる時のようなやり取りをしていると、七瀬さんが俺の袴がくいくいと引っ張った。


「ん? どうした」


「あの、このあと、お茶を淹れてみんなで食べる時に四元君の道着が汚れてはいけないので、一度着替えた方がいいかと思いまして」


 上目づかいでこちらを見ながら話す七瀬さんを見て、七瀬さんが本当に言いたいことがわかった。


 きっと、俺が汗と剣道の防具のにおいで臭いんだ。


 俺に直接「四元君、汗とかで臭いからそのままでは一緒にお茶するのは嫌なので着替えてきてください」等と言っては俺が傷つくと思ってこういう言い方をしたのだろう。


 そう、一緒に食事に行った女の子の歯に青のりが付いていた時に「お手洗いは大丈夫?」と言うような感じだ。


「そうだな。この格好だと食べにくさもあるから、一度帰って着替えてくる」


「わかったわ。お茶の準備はしておくからさっさと着替えてきてちょうだい。雅紀はいつもと同じでいい?」


「ああ、いつもと同じで頼む」


 俺はそう言い残すと急いで自宅に帰って、道着を脱ぐとボディーペーパーで身体を拭いて、制汗スプレーで応急処置をした。


 本当はシャワーを浴びたいところだけど、それだと時間がかかり過ぎると思ってこの対応で済ませる。


 洗濯済みのシャツとジーンズを履いて姿見で変じゃないかと確認する。


 シャツを着た時に香る柔軟剤の香りが前とは違う。きっと、美咲さん好みのものにしたのだろう。七瀬さんの服も同じ香りがするのだろうかと一瞬考えてしまった俺は変態だろうか……、いや、そんなことはない。


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