第8話【無理】いきなり名前で呼ぶなんて

 顔合わせの日から三週間程が経って、あっという間に七瀬さん達が俺の家に引っ越してくる日がやって来た。


 美咲さんが玄関でこれからよろしくお願いしますと挨拶した時は、この場に七瀬さんがいることがなんだか現実じゃないような気がしてならなかった。もちろん、七瀬さんは慣れない所で緊張していると思うけど、俺は自分の家なのにそうじゃないような気持ちになって足が床に着かず、ふわふわしているような気がした。


 そして今夜の夕食は一緒に暮らし始めることのお祝いということで寿司の出前をとったところだ。


「四元君、そこにあるお醤油取ってもらえますか」

「はい、どうぞ」


 俺は七瀬さんの分だけではなく美咲さんの分も合わせて醬油の袋を渡した。


 ずっと二脚しか使われていなかったダイニングテーブルの椅子が四脚全て埋まっている。各々が座っている場所は先日の顔合わせと同じなので俺の向かいには七瀬さんが座っているのだけど、まっすぐ彼女の方を向きながら食べるのはどうも恥ずかしくて目線をお寿司にばかり向けてしまう。


 これだと俺がとても食いしん坊みたいに見えるじゃないか。


「ねえ、クロエ、そろそろ雅紀君って呼んでもいいんじゃない?」


 海老の握りを口に入れていた俺は美咲さんからの不意打ちに思わず噴き出しそうになった。


「ちょっと、お母さん、急に何を言ってるの」


「だって、これから一緒に暮らしていくのにいつまでも四元君ってわけにいかないでしょ」


「それはそうだけど……」


 美咲さんは七瀬さんに向けて言っているけれど、俺だって七瀬さんのことを名前で呼んでいない。ということは、七瀬さんが俺のことを名前で呼ぶようになれば必然的に俺も七瀬さんのことを名前で呼ばないといけなくなってしまうじゃないか。


 もちろん、家族になるのだからお互いに苗字ではなく、名前で呼ぶのが普通だろう。でも、これまで学校では当然お互いに名前では呼び合っていないし、いきなり名前で呼び合うっていうのはハードルが高いというものだ。


 ここは、そのうちにくらいのお茶を濁した返事をして欲しい。


 俺は七瀬さんにその気持ちを込めたアイコンタクトを送った。すると、俺からのアイコンタクトが通じたのか七瀬さんはこちらに視線を合わせて小さくコクリと頷き、


「……ま、雅紀君」


 隣でビールを飲んでいる親父と違って素面しらふのはずなのにほんのり頬を赤らめ上目遣いで俺の名前を呼ぶ。


 俺の気持ちは通じてなかったのかよ! 


「七瀬さん、今日はまだ初日だし無理して名前で呼ばなくてもいいんじゃないか」


 せめてもの抵抗と言わんばかりに、こちらから問題の先送りを提案してみると、七瀬さんは顔を上げて、きゅっと結んだ口を開いた。


「ぜ、全然無理じゃないです。ただ、雅紀君が名前で呼ばれるよりもお兄さん、お兄ちゃん、お兄様、兄貴とかの方が希望であればそちらでもいいですよ」


「そうね。折角の兄妹だからそういうのもいいわね。雅紀君は身体も大きいから兄貴って感じもするし」


 美咲さん、にこにこしながら頷ていますけど、この状況を楽しんでないですか。


 とりあえず、お兄ちゃんや兄貴呼びは止めないと。万が一、学校で七瀬さんが俺のことをお兄ちゃんだなんて呼んだら、一体いくら積んで七瀬さんにそんなことをさせているのかと疑われてしまう。


「美咲さん、さすがにクラスメイトからの兄貴呼びはまずいです。だから、その……、名前で呼んでもらえれば大丈夫です」


 名前で呼ばれるのだってそれだけでドキリとさせられてしまうけれど、兄貴やお兄ちゃんよりはずっとマシだ。


「ところで、雅紀君は私のことはなんて呼んでくれますか」


 それみたことか、やはりこちらまで飛び火してきた。


 俺のことを名前で呼ぶのにもう慣れてきたのか、七瀬さんは少し余裕のある笑みを浮かべながら問い掛ける。彼女のころころと表情が変わっていく様はなんとも忙しい気もするが見ていて飽きることはない。


「そうだな。とりあえずしばらくは七瀬さ――」


「ダメです。クロエがいいです」


 無理無理無理。今まで七瀬さんって呼んでいたのに急に呼捨てでクロエだなんて。


 今日の七瀬さんは自分が先に俺のことを名前で呼ぶようになったからか、いつも学校で見るよりも強気に攻めてきている気がする。


「でも、七s――」

「クロエです」

「ク、クロエさん」

「は、は、はい」


 ただ名前を呼んだだけ。


 それもこれから一緒に暮らす義理の妹だ。


 家族なんだから名前で呼ぶ方が普通なはずということは頭ではわかっている。


 でも、彼女の名前を呼んだ瞬間。口の中がからからに乾いていくのに、顔や背中は一気に熱が上がって汗が滲んでくる。鏡を見なくとも耳まで赤くなっていることがわかるほどに身体が熱い。心臓はいつもと比べ物にならないくらいの馬力で暴れ回り、それを抑え込んでいる肋骨が痛い。


 こんな感じで一緒に暮らしていたら学校卒業する前に俺は死んじゃうんじゃないか。


 一方、名前を呼ばれた七瀬さんは一瞬で白い肌が上気して、ちょうど中トロといい勝負の色合いになっている。


 今日は特上寿司なのにこれでは顔合わせの日と同じで全くもって味がしないかもしれない。


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