終章
おおーい!!
鳩井さまあー!
教覚は必死に叫んだ。
鳩井進次郎は、石鎚藩の江戸藩邸で近習番に出仕していた。
藩主は、国元の状況を確認するため、目付の鷲尾久元を送った。
しかし、何者かに殺害された。
それで、今度は、近習番の鳩井進次郎を目付として国元へ送った。
教覚は、江戸詰の鳩井様を重河村から、肱川藩へ抜ける道案内をしていた。
鹿山村では、「紙方新法」の取止めを嘆願し、農民が、逃散しようとしていた。
「紙方新法」で、本当に打撃を受けたのは、鹿山村だった。
しかし、石鎚領内の農民は、これに呼応して、逃散を始めた。
教覚が、鳩井進次郎にその状況を伝えた。
鳩井は、早速、鹿山村を訪ね、重河村へ向かった。
しかし、既に、農民は肱川藩を目指して、村から出た後だった。
農民を諌められるのは、長久寺の英信しか居ない。そう考えた。
教覚は、鳩井様の六尺程先に立って、安全な足場を探るように歩いていた。
さほど狭くもない山道だった。
落葉の破れる音。
足の滑る音がした。
ああっ!
鳩井進次郎が、声をあげた。
教覚は、咄嗟に振り向いた。
誰かが、鳩井進次郎の前を走った。
体制を崩した鳩井様が見えた。
走っている男に、突き飛ばされのか。
教覚は、慌てて腕を掴もうとした。
しかし、間に合わない。
鳩井進次郎が、崖へ転がり落ちた。
目の前で、鳩井様が重河渓谷に落ちたのだ。
ふと、走り去る男を見た。
すると、梟旗刑部が、鵜川嘉衛門と鳶田慎介、後二人が男を取り囲んでいる。
梟旗刑部が、鳩井進次郎を突き落とした男と対峙している。
「おい!鴉目」
梟旗刑部が、もう観念しろ。と男に詰め寄る。
どうやら、政変が起こっているようだ。
男は、目にも留まらぬ早さで刀を抜くと、梟旗刑部目掛けて斬りつけた。
梟旗刑部は、左腕に傷を負った。
男は、鴉目と申す者らしい。
鵜川嘉衛門と他三人は、一斉に鴉目を目掛けて刀を突き立てた。
そうなると、一溜りもなかった。
鴉目は、四方から刀を突き刺され、崖から落ちた。
教覚は、我に返り、崖を覗き込んだ。
しかし、鳩井様の姿は見えない。
「おーい!」
教覚は叫んだが、反応がない。
必ず、誰か、山に入っている筈だ。
教覚と同様、修験者が山に入っていると思う。
教覚は、法螺貝を吹き、甲音を鳴らして、助けを求めた。
すると、すぐ、呼応するように、山頂付近から法螺貝の独特の乙音が聞こえた。
常慶だ。
常慶は、教覚と同じ、修験者だ。
あの独特の法螺貝の乙音は、常慶に間違い無い。
常慶が山に入っている。
だが、山頂からだと、かなり時を要する。
教覚は、急いで、山道を戻り、谷へ降り始めた。
早くしないと間に合わない。
鳩井様が、亡くなられたとすると、教覚が英信を守り、内子寺へ案内するしかない。
鳩井進次郎は、石鎚領の鹿山村から、石鎚山を越えて、重河村へ向かった。
そして、重河村から、肱川藩の内子寺へ英信を案内していた。
石鎚藩主の定秀は、参勤交代の途上にあった。
農民の逃散した件に付いて、留守役人は、穏便に解決したいと思っていた。
郡奉行らが、逃散した農民を追った。
そして、嘆願を聞き届けると諭した。
しかし、農民は役人の言うことを信用しなかった。
逃散した十六ヶ村の農民は、肱川城下に辿り着いた。
肱川藩主に、窮状を訴え、肱川藩に移る事を願い出た。
そんな時だ。
鳩井進次郎が、肱川藩へ向かう途中だった。
鳩井進次郎が、崖から落ちたのだ。
教覚は、英信を残して、河原へ降りた。
河原の岩場に、鴉目の死骸が打ち付けられていた。
「この辺りだが」
見上げると絶壁が見える。
だが、鳩井様の姿が見えない。
確かに、この辺りだ。
この木の上の崖から落ちた筈だ。
辺りを見渡すと、沢の辺に鳩井様が、座り込んでいる。
生きている?
あの崖から落ちて、生きているのか。
「大丈夫。なのですか?」
教覚は、声を掛けて近寄った。
なんと?
教覚は驚いた。
傷ひとつ無い。
鳩井様が、呆然としている。
腰を抜かしているようだ。
「何があったのですか?」
教覚は、鳩井様に尋ねた。
「天狗。天狗が…」
鳩井進次郎が口走った。
天狗を見たと云う。
鳩井進次郎が、誰かに突き落とされ、崖から落ちた。
真下に岩場が見えている。
必死で、枝を掴もうとしたが、掴めない。
あぁ、駄目だ。
と、観念した時。
腹の辺りに強い衝撃があった。
気付くと、何かに、腹を抱えられている。
何だ。
何が起こったのか分からない。
鳩井進次郎は、ゆっくりと、沢に降ろされた。
呆然自失。
ぼんやりと、座り込んでいた。
鳩井進次郎が驚いたのは、その後だ。
鳩井を抱えて、沢へ降りた何かを見た。
大男。
修験者の装束。
背に飴色の羽がある。
激しく背の羽を羽ばたかせると、宙に浮かんだ。
そのまま、恐ろしいほど速く、空高く飛んで消えてしまった。
どう考えても、あれは天狗だ。
しかし、今は急ぐ。
怪異な物の詮索は後だ。
鳩井進次郎が、長久寺の英信を連れ、急ぎ、肱川藩領内の内子寺へ入った。
長久寺の英信が、農民を説得した。
農民たちは、一切を英信に託した。
各村々は願筋を書いて、石鎚藩に提出する。
逃散以来一ヶ月後に、村に帰った。
英信から、石鎚藩に提出された村々の願筋を石鎚藩で検討した。
そして、「紙方新法」の取止めをはじめ、願筋は聞き届けられた。
首謀者の取調べもなく、一人の罪人も出ていない。
寛大な処置に、英信も納得した。
石鎚藩の責任者として、家老、雁矢貞国は流罪になった。
紙方奉行、物頭も流罪だ。
代わって、家老に雁谷貞継が返り咲いた。
しかし、領民は、お家騒動には興味が無い。
関心事と云えば…
いや、あれは天狗ではない。
役行者に違い無い。
いや、隠神刑部だ。
鳩井進次郎の一件が、城下に伝わった。
すると、色々な憶測が飛交った。
石鎚藩の騒動から、明るい話題を皆、欲していた。
怪異な物の出現に興味津々だ。
その後、天狗は勿論、役行者、隠神刑部など、怪異な物が現れたとは、聞く事がなかった。
皆、待ち侘びている。
不確実な稜線 真島 タカシ @mashima-t
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