5-7 夢

       ◆


 私は海を見ていた。

 どれくらいの時間が過ぎただろう? 波が打ち寄せ、引いていくのを高台から見ながら、私は流れた時間に思いを馳せた。

 小さな島の、浜辺からせり上がった斜面に作られた家に入って数ヶ月のようであり、数年のようでもある。この島には四季がなく、初めて来た時から今まで、気候が変わったことがない。

 故国の四季が懐かしようでもあり、それを思い出したくないような気もした。

 やってくるのは愛想のない男たちばかりで、無駄話は一切しない。私も彼らを出迎えるわけでもなく、生活に必要な物資が運び込まれるのを見物するのも稀だった。ヘリコプターの爆音が彼らの来訪を告げるが、それだけのこと。次にヘリコプターの音がした時には、彼らは一人残らず消えている。

 物資は潤沢だった。最初は煙草もあれば、アルコールもあったけれど、私がそれらに手をつけなかったからだろう、いつからか運ばれてこなくなった。

 私には煙草もアルコールもいらなかった。

 この島には何のストレスもない。すべてが満たされた理想郷だった。

 これ以上、何を望めばいいのか、分からないほどだ。

 自分がどんな世界に生き、どんなことをしていたのか、そのうちに忘れてしまった。何が楽しく、何が辛く、何に心を高ぶらせ、何に絶望したのか、何もわからなくなった。

 この島では平穏な日々が続き、混乱もなければ、苦痛もなかった。思い悩む対象もなく、何かに迫られることもなかった。ただただ、変わらない毎日が続いていく。

 私は、自分が何を捨てたのかさえも、忘れていたのだ。

 人間らしい日々が過去にはあったはずだが、今はもうない。

 ここにあるのは、停止だった。何もかもが動きを止め、時間からさえも切り離されているのだ。

 私は時間を捨てたと言える。どんな変化、いい変化も悪い変化も、もはや私の全てから失われていた。

 だから、その人物が目の前に現れた時、私は最初、何が起こったのか、わからなかった。

 一人の女性が私がいる高台へ近づいてくるのを見て、私は少しだけ息が止まった。

 その女性の顔はよく知っている。知りすぎるほどに。

 記憶が一挙に蘇り、声が漏れそうになった。静かな歩調で歩み寄ってくる女性が堂々としているのとは対照的に。

 女性は私のすぐ目の前まで来て、うっすらと微笑んだ。

 その笑みは紛れもなく、私自身の微笑みだった。

 まるで鏡を見ているように。

「元気そうね、ナギ」

 私は答える言葉を持たない。

「ここでの生活はどう? 退屈していない?」

 ゆっくりと首を左右に振るしかできない自分の弱さが、さらに私自身を打ちのめした。

「あなたのおかげで私は自由になれたのだもの、お礼を言いに来たのだけど、邪魔だったかしら」

 私のおかげで自由になれた。

 彼女は私の写し鏡ではないのだ。

 私こそが鏡像である。

 彼女こそが、私の原版。

「私はもう、誰にも縛られることはなくなった。自分自身の過ちもこうして清算された。何もかもあなたのおかげよ、ナギ」

 女の手が持ち上がり、私の肩に触れる。柔らかく、しなやかな手の感触がした。

 その手の温度まではわからない。でもきっと、この時の私の手ほど冷たくはなかっただろう。

「好きに生きなさい、ナギ。それじゃあね」

 一度、肩を叩いてから、不気味に感じた手は離れていく。女はゆっくりとこちらへ背中を向け、ゆっくりゆっくりと、離れていく。

 私の足が一歩、二歩と踏み出したのは、何がどのように作用したのだろう。

 答えは誰にもわからないはずだ。

 神にも。

 私の両手が持ち上がり、女の首筋へ伸びた。

 十本の指が、あっけないほど簡単に女の細い首筋を握り、そのまま握り込む。

 女は微かに息を漏らしたようだった。

 それだけだ。

 私の指が渾身の力で女の喉を握りつぶし、そのまま深く食い込んでいく。

 ぐっと女の体が重くなったような気がした時、それが意味するところとはかけ離れた軽い音を立てて、骨が折れた。

 倒れ込んだ女をそのままに私はその体を見ていた。

 女の首から一筋の血が流れているのに気付き、私は自分の手を見た。

 爪が女の首を深くえぐったようで、何枚かの爪が赤く染まっていた。

 女には人間の血が流れていることが証明された。

 私にも同じように、人間の血が流れているのだろうか。

 そっと爪を撫でる。赤い染みが、まるでマニキュアのように爪全体に広がった。

 私は一度、目を閉じ、その場を後にした。

 やるべきことを思い出した。ずっと棚上げにしていたことだ。太陽はゆっくりと傾いてきている。私の住まいでは自動で明かりが灯っていた。

 私を歓迎してくれる場所などどこにもないが、少なくとも機械は私を迎える支度をしてくれる。

 私自身も機械ということを、知っているのだろうか。機械同士だから?

 私の生身の肉体は、ある種の機械に過ぎないのだ。

 機械的に抽出されたこの意識も、やはり機械的な情報に過ぎないのだろう。

 そんな機械でも、選択することができるのだ。

 あの女の首をへし折ったのもその一つだ。

 そしてこれから、罪を贖おうとすることも、やはり選択だった。

 生きているものだけが選択をするだろうか。

 作られたものには選択は不可能だろうか。

 その答えは私には出せない。

 私の選択の解釈は、私の手の及ぶところではない。

 できることは、行動することだけだった。

 ただ、行動するのみ。

 行動の前には、意味など何の力もないのだから。

 少なくとも、私は私の行動にどのような意味を持たれようと構わない。

 これまでもそうしてきたのだ。

 そして、これからも。



(続く)

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