5-6 選択の時

      ◆


 急ぎなよ、と言いながら女は扉の外をうかがっている。

 いつの間にかサイレンが鳴っているのが理解でき、慌ただしい足音がそれに重なっている。

「アメミヤ・ナギ、早く選べ。逃げるか、ここにいるかだ」

 立ち上がろうとして、失敗した。床に手をつくのにも失敗して、肘から床に落ちた勢いのまま、うつ伏せになる。肘から発した痺れが、腕の感覚を少しだけ鮮明にさせた。

 逃げるか、留まるか。

 それは何を捨てるかという選択だった。

 今の自分を捨てるか、ということだった。それも立場や身分、権利などに限らず、何もかもを捨て去れるか、ということである。

 国防省の支援がなければ、脳情報移植型代替身体の手配もなくなり、それどころかここを出て行ってしまえば、死ぬまで追われ続けるだろう。あるいは他の国からも追われる身となり、この世界から安息の地は一切、消滅するかもしれなかった。

 名前を名乗らない女は、まだこちらに手を差し伸べている。

 私の中では五分も十分も過ぎているような感覚があったが、どうやらまだ数秒しか過ぎていないらしい。

 思考はまとまらない。

 選択など、とてもできない。

 ただ、これ以上、何を聞かされ、知ったとしても、選択に必要な情報は得られない気もした。

 もはや選択するしかない。

 逃げるか、留まるか。

 捨てるか、捨てないか。

 踏み出すか、竦むか。

 竦む?

 女が手を引っ込める気配を見せた時、私の手が素早く伸びてその手を握っていた。たったそれだけのことなのに、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。自分自身の行動にだ。

 自分の選択は、裏切りだった。組織に、国家に、自分自身に対する裏切り。自分のこれまでの全てを裏切ることだ。

 だが、他に選べる道はない。

 いつの間にか不敵に笑っていた女が、私の腕を力強く引っ張って立たせてくれた。足が震えるのは、久しぶりに立ち上がったからか。それとも私は怯えているのだろうか。

 自分自身が選んだ道なのに。怯える必要はないはずなのに。

「急ごう。こちらにもやることがある」

 言いながら、女が自分の腰から何かを取り出したかと思うと、それは私にも馴染み深いリボルバー式の拳銃だった。押し付けるように手渡され、まるで何もかもを了解しているように私はその拳銃を掴んでいた。

「護身用だ。お前の脱出経路は確保されている。私たちはこれから、倭国国防省から雨宮凪の本体を奪還する」

 本体を奪還する?

 女に引っ張られるように表へ出ると、自動小銃を持った男が二人、待ち構えていた。その片方が私に肩を貸しながら、「我慢してください」という声と同時に何かの小さな針を腕に突き刺してきた。痛み自体は小さいが、全身がカッとなり、燃えるような熱が駆け巡った。

 私が歯を食いしばっている間に、女は男から報告を受けている。

「アルファチームは予定通り、第一ポイントを死守しています。ブラボーチーム、チャーリーチーム、デルタチームはそれぞれの担当区域を制圧中。エコーチームはゼロ・フロアへの経路にアクセス中です。電子装置は無効化し、エレベーターシャフトを調べています」

 全てをぼんやりと聞きながら、どうやら私の救出は寄り道で、私と同じ原版から生まれた女とその部下は倭国国防省の本部ビルを本気で制圧しようとしているらしい。いくつものチームが有機的に動いているとすれば、ただのテロリストではなく、軍隊的な組織かもしれなかった。

「国防軍はこちらへ急行中ですが、自動運転車で妨害しています。それでもあと十分も経たずに到着する見込みです。全部で二個中隊と観測班から報告がありました」

「力尽くで潰すつもりか。急ごう。彼女を頼む」

 そんな言葉を部下と交わした女は、一人を連れて廊下を足早に去っていった。私は残った一人とともに別の方向へ進むことになる。男は力強く私を支えていて、私は自分の足で歩いているというより、引っ張られている、運ばられているという形だ。

 片手には拳銃を下げたままだった。握ってしまうと五本の指は二度とそれを放さないと決めているようにがっちりと固まって動かなくなった。それなのに、いつでも引き金をなめらかに引ける確信がある。

 サイレンに混ざってアナウンスが鳴っている。人工音声ではなく、生の人間の声だった。焦りに焦り、叫んでいるのに近い。それが一度、短い悲鳴が聞こえ、それきり何も聞こえなくなった。

 二人で先へ進む間、誰とも会わなかった。脱出のための経路が確保されているとしても、奇跡のような展開だった。襲撃者の動きを鈍らせるために防火シャッターを下すような手法も考えられるのに、それさえも意味をなさないらしかった。私たちを足止めさせたり、迂回させたりするような場面はなかった。

 前方にドアが見えてきた。避難用のドアらしいが、閉まっている。誰かが抜けた痕跡はない。ドアに付属の端末には赤いライトが灯っており、ロックされているように見えたが近づいていくうちに緑に変わり、かすかに解錠される音が聞こえた。

 男がドアを押し開け、踏み出してみるとそこはもう屋外だった。

 だが、幸運もここまでだったようだ。

 銃声が二度、三度を響くと、私に肩を貸して動きが鈍っていた男の体が小刻みに震え、転倒した。それに私も巻き込まれ、反動をもろに受けて地面に投げ出される形になった。

 もし、解放された直後に薬を打たれていなければ、倒れたままでいるしかなかったはずだ。

 銃を片手に起き上がろうとすると「動くな」と低い声がした。

 聞き慣れた、耳に馴染みのある声だった。

 感情がほとんどないのに、その声はこんな時でもどこかに優しさを含んでいた。

 そう、彼は突き放すような態度の時でも、必ず柔らかさを、彼らしい人格をまとっていたものだ。

「動くな、レイン」

 でも私は彼の言葉を無視して、立ち上がった。ふらつきながら、片手に保持したままだった拳銃を持ち上げる。

 銃口の先には、カクリがいた。

 どうやら一人らしい。どうやって私の逃走経路を見出したのだろう。それに何故、他に人を連れていないのか。

「銃を捨てろ、レイン。今ならまだ、お前を庇える」

 淡々と、カクリは言葉にしていく。責めるような色、咎めるような色はなく、ただ私のことを考えている声だった。その声には私を激しく揺さぶる力が、確かにあった。

 拳銃を捨てるべきかもしれない。

 ここで投降するべきかもしれない。

 そうすればまた、元の状態に戻れるかもしれない。

 そんなことを考えた私の思考は、ほんの刹那のことだ。

 私は道具にすぎないし、交換も量産も可能な物体に過ぎなかった。人間でありながら、人間ではない。人間から生まれ、人間が作り、人間にそっくりでも、人間とは別種の存在。

 元の状態に戻ったところで、何も変わらない。

「レイン、もう一度だけ言う」

 私の拳銃の銃口はカクリを。

 カクリの拳銃の銃口は私を。

 それぞれに捉えたまま、微動だにしなかった。まるで何もかもが凍りついたように、二人は動かなかった。

「レイン、銃を捨てて投降しろ。私は……」

 私の指に力がこもった時、カクリの指にも同時に力がこもっていた。

 そこに殺意はあったのか。

 それとも優しさだっただろうか。

「お前を撃ちたく」

 ない、という言葉は銃声の向こうに溶けて消えた。

 二人は同時に引き金を引いていて、同時に倒れていた。

 苦鳴を必死に飲み込んだ時、私は自分が死んでいないし、死にそうもないことを理解した。左肩が激しく痛む。銃弾が抉っているのは間違いないし、出血がひどいのもわかった。それでも死にそうにない。

 起き上がろうとして、信じられないほど苦労した。苦労しながらも、それでも最後には私は自力で立った。左肩は動こうとしない。筋肉が破れ、骨が粉砕されているようだ。一歩一歩、倒れたままのカクリに歩み寄るのも苦痛だった。足を送るたびに、息が詰まる。

 カクリの横に立って、その体を見下ろした時、彼の体が活動を停止しているのがわかった。

 首に銃創があり、機械式義体の機能を維持する循環液が漏れ出して水たまりになっている。カクリが目を見開き、口をわずかに開けていて歯を覗かせているそのまま、少しも動かないのは、まるで人形に変わったようだった。

 私がその彼の肩をつま先で押したのは、考えてのことではない。リボルバーが解き放った徹甲弾の威力が信じられなかったということもなかった。

 力を込めて仰向けの体をうつ伏せにすると、苦労して膝をついてその首筋のあたりに手を伸ばす。

 以前に聞いていた通り、皮下に小さなつまみが隠されており、皮膚ごとに捻ると予想通りの反応があった。皮膚が裂けると、カード状の記録装置が吐き出されてきた。

 カードを引き抜き、私は渾身の力で立ち上がり、歩き出した。

 気づくと数人の男に囲まれ、護衛されるように私は倭国国防省の本部ビルの敷地を出た。敷地は高い柵で囲まれているのが、一部が破られていたような気がするが、判然としなかった。あまりの疲労と苦痛に、何もかもが曖昧になっていた。

 意識を保つ限界は、一般的な電気自動車の後部座席に押し込まれたところでやってきた。だから自分がどういう経路で、どこへ運ばれたかはわからない。

 ぼんやりと意識が回復した時には、私は学生が住むようなワンルームの部屋にいて、その部屋にはシングルサイズのベッドと、床に直接に置かれた多機能モニターしかなかった。

 喉の渇きは気が狂いそうなほどだ。ベッドから起き上がろうとして失敗して滑り落ちたが、そうなってから床に直接、水の入ったボトルが数本、置かれていたのがわかった。

 膝をついて上体を起こし、掴んだボトルの蓋を開く。この蓋が信じられないほど固かった。何度も休みながら、どうにか開いたときには一分や二分ではきかない時間が過ぎていた。

 いつぶりに飲んだか分からない水は、全身の細胞に浸透していくような感じがした。

 むせたり、嘔吐しそうになったりしながら、置かれていたボトルの水は全部、私の体の中に消えた。そうなってやっと、少しだけの余裕がやってきた。

 私は安全なのだろうか。国防省の本部ビルはどうなったのか。私を救い出した女やその仲間は、その後、どうなったのか。

 這いずるようにして多機能モニターに近づき、起動させる。

 映ったのは全国ニュースのようだった。時間の表示は早朝。そういえばカーテンの向こうからのかすかな明かりだけがこの部屋の光源だった。

 ニュースでは、倭国国防省本部ビル襲撃事件が報道されていた。死者の数は見たこともない数で、実行犯の大半も死亡したようだった。しかし逃亡したものもいる。

 私の存在は、もちろん、放送内容のどこにもない。

 私の存在は、報道されるわけがない。

 そもそもいなかった存在が、いなくなっただけなのだ。

 誰にも知られないまま、私という存在は消えさった。

 不意に鍵が開く音がした。誰かが部屋にやってきたらしい。

 無意識に拳銃を探し、見つけることはできなかった。

 ドアが開く音がする。

 死神がやってきたとしても、驚きはしなかっただろう。

 それでも武器は欲しかった。

 それが私の、本性らしかった。

 死神にさえも、銃を向けようとする性質が。



(続く)

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