5-5 地獄からの回帰

       ◆


 独房は独房でも、処置は全く違った。

 放り込まれた私は即座に目隠しをされ、猿轡を咬まされた。両手足が縛られたのは暴れるか、もしくは自死を防ぐためだ。猿轡もやはり、騒がれるのを嫌ったのではなく、舌を噛ませないためだ。

 独房は防音が完璧でまったくの無音だった。目隠しで何も見えない。

 私自身の荒い息遣いだけが無音の内側での唯一の音であり、時間の経過の証明だった。

 身動きせず、私はただ横になっていた。思考だけは目まぐるしく巡ったが、答えや結論にたどり着くことはない。

 マコモの誘いをどうやって国防省が察知したのか。私が誘いに乗ったと誤解しているのか。それとも国防省は全てを知っていて、マコモの計画は察知されて潰されたのか。そこから私の名前が出て、今の状況があるのか。

 カクリが裏切ったわけがない。彼は裏切らない。そのはずだ。

 鷹咲中佐はどこまで把握しているのか。中佐にも追及が及んでいるのか。中佐は私を最後までかばう必要はない。私は人間のように見えるが、人間ではないのだから。今の私を見捨てて、新しい私を作ることが彼にはできる。つまり、新規の脳情報移植型代替身体と、雨宮凪の脳情報から、私を再生産すればいい。

 それを咎めようと思えば、最上の手段としては雨宮凪の脳情報に関する記録を消去する、という手がある。脳情報そのものがなくなれば、私の複製、正確には雨宮凪の同源分岐人格の再生産は不可能になる。

 それでも再生産しようとするなら、原版、まさしく雨宮凪本人から再び脳情報を取り出す手段が選べる。そこまで行ってしまうと、完全決着を求めるなら、雨宮凪その人を消去することに行き着くだろう。

 原版。雨宮凪。それは国防省のゼロ・フロアにあるはずだ。私はそれをいつか、この目で見た。

 そこまで考えた時、ふと、軍事知能群「アスカ」のことが頭に浮かんだ。

 あの超高性能な知性体は、私のことをどう把握しているのか。そして、雨宮凪とはどういう関係なのか。

 奇妙なことに「アスカ」の本体と雨宮凪そのものは、同じレベルで秘匿されている。では両者は同格なのか。方や類を見ないほどの高性能な知性、方や正体不明の人間の女性。どこに同等である要素があるだろう。

 誰かが言っていた。

 雨宮凪という存在から生じた脳情報は特殊だと。決して自己矛盾に陥らない、というような趣旨のことを話したのは誰だったか。

 雨宮凪とは、人間でありながら、どこか逸脱した存在、ということだろうか。

 では、その雨宮凪から作られた私は、いったい何なんだ?

 あるものは、雨宮凪は神だという。

 雨宮凪から生じる同源分岐人格群は、宣教師だという。

 私たちは誰を導くのだろう。人間? それとも、社会か?

 急に自分のことが恐ろしくなった。これまでずっと、自分は普通の人間の領域にいる人間ではない存在、だと思っていた。人間ではないとしても、人間たちの社会に立つことを許され、その社会に紛れていても咎められない存在だと思っていた。

 勝手に、そう思っていた。

 違うのだろうか。私は人間とは相容れない、異質な存在なのだろうか。

 肉体は人間と大差ない。頭の中に収まっている脳が違うだけだ。赤い血が流れるこの肉体は、たったそれだけのことで、居場所を否定されるのか。

 雨宮凪という神と、そこから生まれた使徒は、この世界に新しい概念を与えるのだろうか。

 それは、脳情報と脳情報移植型代替身体を、まったく新しい形でこの世界に認めさせる、ということか。

 しかし、どうやって? 雨宮凪から生まれた意識が世界の全てになることなどありえない。脳情報移植型代替身体が、人類の全てになることもありえないだろう。ありえないというのは私の思い込みなのか。

 実は何もかもが、容易に塗り替えられてしまうのか。

 何も知らされないまま、知らないうちに?

 私の思考は時間とともに迷走し、混沌とした概念の洪水の中に飲み込まれていった。

 飢えと渇きがやってきた。不自然な形で拘束されている体は軋み、痛みを訴える。

 どうしようもなかった。飢えは飢えとして、渇きは渇きとして、痛みは痛みとして、そこにあり続け、さらなる時間の経過の中で自然なものと認識され、消えていった。思考は鈍磨し、感覚は曖昧なものへと変化していく。

 何故、私は作られたのか。

 誰が私を作ったのか。

 自然と生まれたのでもなければ、神ではない人がその知恵と技術によって作りし存在。

 人の形をし、人の意識を持ち、人の感情を与えられながら、人にとって都合のいいように使われる、ある種のジグ。

 私の思考は千々に乱れ、空転を始めていた。

 私は生きていないのか、それとも死にたいのか。死ぬとはどういうことか。この意識が消滅することか。しかし今も首筋には記録を記憶し続ける装置があり、私が意識を失ったとしても、新しい脳情報移植型代替身体にしかるべき脳情報を転写し、そこへ記憶を移植すれば、私のようなものは再びこの世に生まれてしまう。

 人間を構成する要素とは何か。

 肉体、思考、記憶。

 その三位一体で人間が構成されるなら、私という存在は、そのどれもを技術によって生み出され、管理され、支配されている。

 限りなく人間に近い、ただの装置。

 死にたい、と不意に思った。肉体の活動の停止でもなく、意識の消失でもなく、記憶の消去でもなく、私という存在そのものをこの世界から消したかった。

 激しく死を求め始めた思考は暴走を始めるかと思われたが、不意に私は我に帰り、自分が死を求めたことに驚き、わずかに震えた。

 まさか、今、私が陥りかけた思考のループこそ、脳情報から成り立つ人間に生じる不具合なのか。

 私がこうして正気に戻ったことが、雨宮凪という存在の特性なのか。

 自己矛盾と自己否定の渦から浮かび上がる特性。

 強靭な、そして異質な精神構造。

 雨宮凪がどうしてそれを獲得したのかは、想像もつかない。しかしその雨宮凪の精神構造そのものが、雨宮凪から生じた同源分岐人格群の地獄なのかもしれなかった。

 誰もが救いを求めているのに、究極の救いであろう自死さえも許されず、永遠に生き続けなければいけない地獄。

 世界を変えるということはつまり、世界への反抗、世界への復讐なのではないか。

「元気かい?」

 不意な声に私は幻聴を聞いたかと思った。

 次には目隠しが剥ぎ取られ、強烈な光が私の網膜を焼き、何も見えなくなった。

「ひどい有様だが生きているようだ。さすがに国が用意した代替身体、性能がいいね」

 声の主はそんなことを言いながら、手早く私の両手足の拘束を破壊した。二発の銃声が、私の両手首、両足首を拘束していた手錠の鎖をちぎったようだった。その銃声もまた、私の鼓膜を突き破りそうだった。そして猿轡が外され、私は喘ぐように空気を吸った。

「落ち着きなよ。ほら、これをつけるといい。でないと何も見えないだろう」

 言葉の後、目元に何かがかけられた。サングラスのようだ。まだ視界はぼんやりとしていたが、その中で相手の顔を見て取ることができた。

 もちろん知らない顔だ。

 だが、その笑い方はよく知っている。

 私の笑い方だからだ。

「さて、アメミヤ・ナギ。決断の時だ」

 女は余裕たっぷりに、ウキウキとした声で言う。

「逃げるかい? それとも、地獄で悪魔どもに囲まれているままがいいかな?」

 私はうまく力が入らない手足に苦労しながら、それでも座り直し、顔に落ちてくる前髪を払った。

「あなたは、誰?」

 自分のものとは思えないかすれた声に、女は少し愉快げな顔に変わった。

「聞かなくても分かるだろう? きみの姉妹の一人だよ」

 さあ、と女が立ち上がり、こちらに手を差し伸べる。

「さっさと選びなよ。あまり時間はないんだ」

 私はサングラス越しに女を見て、思った。

 開かれた扉から差し込む強い光を背景にした彼女は、まるで天の使いのようだ。

 そして私がいるここは、まるで地獄の底のようでもあった。



(続く)

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